『北魏仏教造像史の研究』は、炳霊寺西秦造像は十六国期の稀少な紀年造像であり、この時期の河西造像を理解する上で極めて重要である。420年頃はまだ北魏の勢力は陝西以西には及んでおらず、河西地区では西方からやってきた高僧を迎えて涼州仏教が盛行した。その後、431年に西秦が、439年に北涼が滅亡すると、涼州造像は一気に北魏の都平城にもたらされて、平城造像の最盛期を現出原動力となった。炳霊寺西秦造像に見られた涼州式偏袒右肩も、この時ようやく平城方面に伝えられたものと思われるという。
169窟は西秦時代に造像されたり描かれたものが多く残っているので、今回の黄土高原の石窟巡りでは、楽しみにしていた窟の一つだった。
169窟 西秦、北魏補塑 高さ15.00m、幅26.75m、奥行19.00m
『中国石窟 永靖炳霊寺』(以下『永靖炳霊寺』)は、窟内に24龕あるという。
炳霊寺石窟169窟平面図 『中国石窟 永靖炳霊寺』より |
北壁後部
『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦』(以下『第169窟』)は、北壁の前部は千仏壁、千仏壁の前には北の上部の壁をつなぐはしごがある。後部には下層の龕に仏像と壁画があるという。
1龕 北壁上層最西側 浅龕 高さ0.67m幅1.12m 龕下に木板を敷く
二仏並坐像
『第169窟』は、 高さ約0.50メートルの仏像が2体残ってる。如来は高い肉髻に方円形の顔、袈裟を通肩に着けて、結跏趺坐する。彫像の胸はひどく損傷しており、特に向かって右側如来は塑土が落ちている。頭光と光背は火焔文。二如来の光背の間に通肩の大衣を着た菩薩の半身像が描かれているという。
左肩に回した大衣の衣端がマフラーのように幅広く、肩から腕にかけて張り出して表現されている。
2龕 北壁外側上層中部 浅龕 龕残高0.90m、幅1.40m 挿し木と泥で浅龕を補強
『第169窟』は、二仏が残る。向かって左側は残高0.67m。高い肉髻、ふくよかな丸顔、耳は大きく通肩の大衣を着て結跏趺坐する。光背が一部残るという。
右側の如来は損傷がひどいが、左肩から腕にかけてかかる衣端に彩色が残る。
3龕 一仏一菩薩一天王像 西秦 塑造
『永靖炳霊寺』は、中央に禅定する如来、右脇侍菩薩と天王。
仏陀坐像の上に天蓋と2人の飛天が描かれている。光背には供養菩薩、頭光には9体の如来坐像、龕左側に故事が描かれている。
この龕には、北魏の「大代延昌4年」と唐代の碑文が記されており、延昌4年(515)以前に造られたことがわかるという。
3龕
通肩の如来はがっしりとした体格と明朗な顔立ちで、肉髻は小さいが高いし、耳も大きい。何よりも膝と定印を結んだ手の大きいこと。
菩薩と天王は裙が脚部に密着しているが、裙はやや厚めの布のよう。
如来の坐す台は薄い方形で、その下の縁には並列のパルメット唐草文が大きく描かれている。
同書は、髪を高く束ね、長い髪は肩にかかる。長い眉に細い目で丸顔。上半身は裸で貴石を通した瓔珞をつけ、長い裙を履いている。右手は飄帯の端を握り、左手は蓮蕾をあげるという。
細い刻線で裙の浅い襞を描く。
同書は、左に鎧を着け、右手に金剛杵を持つ天王。激しい表情で表されている。天王は、新疆ウイグル自治区拝城のキジル石窟や、敦煌の莫高窟の北魏の説法図の壁画にも従者として描かれていることが多いが、中原ではあまり見られないという。
皺がよるほど下唇を噛み締めて威嚇している。金剛杵の形も古風。
4龕 北壁中層、1・2龕の中間の下 西秦
崖面に穿たれたアーチ形浅龕 高さ2.50m、幅2.20m、奥行0.45m
『永靖炳霊寺』は、西秦時代の最早期に造られた仏像は、169窟の浅龕にある単身の石胎塑像で、正壁上部の12体(18龕)や北壁上部の4体(4龕)などであるという。
『第169窟』は、龕内に一仏二菩薩立像が塑造されているという。
背の高い中尊の消失した顔面に気付くと立つ姿が見えてくる。そして鮮やかな着衣が小さく表された右脇侍菩薩。では左脇侍菩薩は・・・と凝視すると、崖の出っ張った面に立っているのがわかった。
右脇侍菩薩 石胎塑造
『第169窟』は、頭部及び上半身は塑土の表面と顔料が剥落して、石胎が露出している。下半身は塑土の表面と顔料がよく残っていて、大衣の赤と飄帯の青を見ることができるという。
同書は、表面の泥皮と顔料は失われている。東側のアーチ形龕に石胎塑造の如来坐像が1体、結跏趺坐し、禅定印を結ぶという。
赤と白のまだらの地層が強烈で、彩色の残らない仏像を見分けることは困難。
炳霊寺石窟169窟4龕 西秦 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
5号龕は北魏時代の造像なので、前回紹介済み
6-9龕
6龕 西秦建弘元年(420) 高さ1.70m、幅1.50m、奥行0.76m
『第169窟』は、木材を岩壁にさし込んで、塑土で3枚の蓮弁形の光背と、八角形の床面をつくった。龕内には一仏二菩薩像、東側(向かって右側)上方に西秦建弘元年銘の題記があるという。
無量寿仏(阿弥陀如来)坐像 総高1.55m
同書は、反花の蓮のうえに結跏趺坐し禅定印を結ぶ。高い肉髻、四角い顔、眉間に白毫、切れ長の目、高い鼻厚い唇。頚は短く、広い肩に細い腰、身体は逆三角形で腹部はわずかに出ている。僧祇支には十字亀甲文が描かれる。
身光は伎楽天が左右各5体描かれている。無量寿仏という四文字があるという。
小さいが高い肉髻には髪の筋が刻まれる。少しわかりにくいが、右肩から腕に掛けては大衣が掛かっており、涼州式偏袒右肩で、亀甲繋文が胴部から上にだけ描かれている僧祇支は、胴部で全く区切りがない。僧祇支とは胴部までを覆う内着だと思っていたが、これではワンピースのように下まで続いているようだ。
吉村怜氏の古代仏像の着衣形式と名称15頁の「図14法隆寺の金堂釈迦像」を見ると、僧祇支は大衣と共に台座を覆う着衣の一つでもあったのだ。私は着物の二部式肌着のように、別の内着の裾が見えているのだと思っていた😅
『北魏仏教造像史の研究』は、浅井和春氏が「涼州式偏袒右肩」と名づけたこの地位形式は、筆者も、肩を露出しないという点で着衣の中国的な変化とする見解を提示している。炳霊寺石窟第169窟(西秦時代、420年頃)に出現したこの新しい着衣形式が、河西地区では434年頃に現れるとする殷氏の指摘は、この着衣形式の伝播を考える上で重要であるという。
「涼州式偏袒右肩」「涼州式偏袒右肩」と書いてきながら、その最初のものが本像であったとは😆 ものごとの最初のものを探ることを心掛けてきたなどとは言えなくなってしまった😑
両脇侍菩薩像
右脇侍 観音菩薩像 総高1.18m
同書は、髻は扇形にたかく結い、宝繒、耳飾りを付ける。陰刻した衣文は左肩から密に下りる。衣文線の並ぶ裙は両側に分かれて開く。左手に蓮蕾󠄂、右手に飄帯の裾を握る。
身体のバランスは良く、表情は温和で、半円形の蓮台にのる。
円形の頭光と蓮弁形の光背は、内側から火焔文と連珠文で色彩が鮮やかという。
左脇侍 勢至菩薩像 総高1.10m
髻は残り、その下は盤状の髪になっている。飄帯は両肩から垂下して、右手は胸前にあげているが、何を持っているかは不明。左手は飄帯を握り、赤い足は半円り反花の蓮台におく。上半身の肌は白く裙は緑色、光背は火焔文と連珠文。さ上に「得大勢至菩薩」という墨書があるという。
日本では、阿弥陀菩薩の脇侍は左が観音菩薩、右が勢至菩薩。
北壁 6・7・9・10癌と6窟の題記(中央の長方形の部分)
7龕 6龕の東側 建弘元年(420)銘の題記の左側 残高2.90m幅1.65m、塑土皮厚さ0.16m
三如来立像のうち
『第169窟』は、崖壁面に木の杭をさし込んで上に縦横に枝を組み、蓮弁形の光背を塑土でつくったという。
龕にはもとは3体の如来立像があった。
広い肩、細い腰。通肩の大衣にU字形の衣文を線刻する。頭光と光背が残り、健康的な体で反花の蓮台に立つ。
大衣は蝉の羽根のように薄く、西域の影響を受けているという。
この像は以前から知っていたので、広く高さのある169窟で見つけることがてきた時は、やっと会えたと感慨もひとしお。そして、隣の如来の招いているかのような左腕が痛々しかった。
3体の如来とは、三世仏のことだろうか。
この如来立像についてはずっと以前に記事にしたことがある。
『中国の仏教美術』は、興味深いことは、5世紀前半のインド・グプタ期のマトゥラー彫刻にみられる特徴をいくつか備えている点である。まず第一に、マトゥラー仏立像の多くは等身大あるいは2m前後の大像であるが、炳霊寺7号立像もまた2.45mにおよぶ大像である。中国に現存する像の中で、「仏の像」をこれほど大きく表現した例は、この炳霊寺像が初めてである。
また炳霊寺仏立像7号立像は、マトゥラー仏立像と共通点がある。一つは衣が体に密着し、服を通して全身の体の線や、肩から肘にかけてのたくましい肉付けが見て取れる点である。さらに左右2本の腕から下がる衣端の細かいひるがえりの表現も、炳霊寺像とマトゥラー像の共通する特徴である。
5世紀前半のインド・マトゥラー彫刻のもつ特徴を、同じ5世紀前半に造られたと考えられる中国。炳霊寺の像が備えていることは、文化伝播の速さという点で大変注目に値するという。
また炳霊寺仏立像7号立像は、マトゥラー仏立像と共通点がある。一つは衣が体に密着し、服を通して全身の体の線や、肩から肘にかけてのたくましい肉付けが見て取れる点である。さらに左右2本の腕から下がる衣端の細かいひるがえりの表現も、炳霊寺像とマトゥラー像の共通する特徴である。
5世紀前半のインド・マトゥラー彫刻のもつ特徴を、同じ5世紀前半に造られたと考えられる中国。炳霊寺の像が備えていることは、文化伝播の速さという点で大変注目に値するという。
5世紀前半のマトゥラ-仏はこちら
高く丸い肉髻は西秦時代にすでにあった。3龕や6龕の如来はどちらかといえば四角い顔だが、この如来は丸顔で、穏やかな表情。長い頚には三道が浅く線刻されている。
頭光は12の化仏 (『第169窟』は13体という)のある帯の外側に火焔文が描かれる。
身光の頂部には火焔文が浅浮彫されている。
身光は飛天が10体描かれている。飛天は長髪で散華し、音楽を奏で、舞っているという。飛天や地の緑色も鮮やかに残っている。
北壁下層西端 建弘元年(420)銘の題記の下方の8龕(北魏時代)と9龕(西秦)
8龕の方がつくりかたが素朴。
三世仏あるいは三身如来立像 塑造
『第169窟』は、蓮弁状の背屏がある。右の如来は左の二如来とは異なり、反花の蓮台に立つという。
二如来とはいっても二仏並坐像ではなさそう。
右の如来の右隣にも身光がありそうで、西秦時代は如来立像を2体ずつ造るのが流行っていたのかも。
右如来 高さ1.06m
同書は、高い肉髻、方円形の顔、頚は短く、広い肩幅で腰は細い。右手は胸前にあげ、左手は下ろして大衣の端を握る。剛健な身体で、反花の蓮台に昂然と立つ。
大衣は通肩で衣文は陰刻される。頭光と身光には、連珠文と火焔文が描かれるという。
7龕の如来立像は脚が長いが、こちらはやや短め。着衣の衣文線も粗いように見えるので、7龕よりも後に、模倣されて造られたのだろう。
大衣を通肩に着ると、左肩から腕に衣端の一部が掛かる様子がよく表現されている。時代が下がると短くなり、やがては消滅していく。
蓮台の反花は、盛り上がった子葉を2つ並べた複弁の蓮華で、非常に形の整った蓮台である。
蛇足だが、日本では複弁蓮華文の軒丸瓦は白鳳時代につくられるようになった。
同書は、高く丸い肉髻、顔は剥落がある。半偏袒右肩に大衣を着て、内着の僧祇支が見える。着衣は薄く身体に貼り付く。頭光と身光は火焔文や蔓草文、連珠文そして蓮華文が施されるという。
半偏袒右肩とは、涼州式に右肩を覆っていないことを言うのだろうか。左腕から垂下する大衣の衣端は波打つが、7龕の如来のものよりも隙間が広く、その中の緑色の彩色が鮮やかに残る。
同書は、高く丸い肉髻、方円形の顔、長い眉に細い目、小鼻は小さく鼻筋はまっすぐで、唇の片方に笑みを浮かべ、自然な表情である。
右手は下ろして衣端を捻り、左手はあげて衣端を握る。偏袒右肩の大衣に僧祇支を着ける。着衣は薄く身体に密着する。造形の特徴は中央の如来とほぼ同じ。
頭光と身光は、蓮華、花綱文、パルメット唐草文、火焔文、縄文及び連珠文が描かれる。
足と蓮台が失われているのが惜しまれるという。
大衣を涼州式偏袒右肩に着ているが、大衣は胸部が隠れるくらいに回している。左肩から腕にかけて掛かる大衣の衣端が煩雑な襞となっている。
10-13龕は仏画なので、後日まとめます。
参考文献
14号龕 背屏式の龕 高さ0.60m、幅1.60m、奥行0.21m
三如来坐像
『永靖炳霊寺』は、「仏説未曽有経」の経文下部に仏像の頭光や天蓋が部分的に残る。西秦末期に造られた仏像の可能性があるという。
『第169窟』は、龕の高さや奥行がそれぞれ異なるという。
右の如来 高さ0.55m
『第169窟』は、肉髻は平たい円形。通肩の大衣を着て結跏趺坐する。頭光身光は火焔文、パルメット唐草文、連珠文が描かれるという。
腕に掛かる大衣は厚そうである。
中央の如来 高さ0.44m
涼州式偏袒右肩で中に僧祇支を着る。結跏趺坐し禅定印を結ぶ。体はやや傾くという。
右如来とともに穏やかな表情を浮かべる。ややふくよかな腕と腹部である。
『第169窟』は、頭部、肩部、背後に光背が残っている。破損がひどいが、頭部に肉髻があるので如来と判断できるという。
まだ一部をあげただけだが、西秦時代の仏像はその顔貌がさまざまなのに驚いた。この地には、それだけ多くの民族が暮らしていたということだろうか。
14龕及びその付近にも仏画があるので、これも後日まとめます。
関連項目
参考サイト
吉村怜氏の古代仏像の着衣形式と名称15頁の「図14法隆寺の金堂釈迦像」
参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国の仏教美術」 久野美樹 1999年 世界美術双書006 東信堂
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ