西秦という国について『五胡十六国 中国史上の民族大移動』は、前秦の苻堅が淝水での苻堅の敗戦の情報がもたらされると、国仁は隴西に留まって諸部を招集。
苻堅が後秦の姚萇に殺害されると、国仁は385年9月には大単于・秦河二州牧を自称し、建義と建元して勇士城に都を置いて独立。これが西秦の建国である。
乾帰は400年に後秦の姚興から河州刺史とされ、これによって西秦は一旦滅亡。
後秦が北魏や夏の台頭によって弱体化すると、乾帰は後秦の支配から離脱し、409年7月には度堅山で秦王を称して更始と改元した。西秦の復活である。
西秦は420年代初めまでは、東晋およびそれに代わった宋と連携しつつ夏に対処し、また北涼と西涼の抗争を利用して河西地方へ進出するなど、周辺に対して勢力を図っていた。
ところが北魏に圧されて西奔してきた夏にせめられて431年1月にはそれに降伏し、ここに西秦は滅亡するのであるという。
『北魏仏教造像史の研究』は、甘粛省の祁連山脈北側の山々に囲まれた長さ1000㎞に及ぶいわゆる「河西回廊」は、インドから西域を経て敦煌、長安へと通じる仏教の幹線路であった。西秦が都を置いた金城、苑川、枹罕は当時仏教が盛んであった長安と姑臧の中間に位置し、東西に行き交う求法僧の通過地であったため、国内外の高僧が集まった。
乞伏熾磐(在位412-428)の代には枹罕(甘粛省臨夏市付近)に遷都して全盛期を迎えた。
炳霊寺石窟第169窟は計画的に造られた石窟ではなく、窟内の地形に応じて壁や床を造り、木材を補強し、塑土を盛って造像し、壁画を描いている。窟内の塑土や壁画は重層になっている部分もあり、補修や塗り直しを経ていると思われる部分も多いという。また、図像も窟内が統一的な主題で構成されているわけではなく、部分ごとに主題が設定されており、全体が同一時期に製作されたのではないことがわかるという。
臨夏市(枹罕)は、炳霊寺石窟とは黄河を挟んで南部に位置する。
169窟は西秦時代の仏像が多く残っているので、前回まとめた通肩如来像の年銘などと比較しながら、窟内の仏像の制作順を考えてみた。ほとんど妄想かも😅
『第169窟』は、丸く高い肉髻、肉髻の表面に塑土を盛った痕跡がある。耳は大きく顔は風化してはっきりしない。首は太く、広い肩細い腰で手足は頑健である。
内着は僧祇支、偏袒右肩に大衣を着る。左手は胸前にあげて大衣の端を握り、右手は下げる。
反花の蓮台に足を開いて立つという。
左肩に回した大衣の端は、左肩から腕にかけて、マフラーのように大きく表されている。
左手で大衣の端を握り、右手は下げている。この右手あたりはなくなっているので、右手も衣端を掴んでいた可能性もある。
北壁4龕 169窟最初期 一仏二菩薩像 石胎塑造
『第169窟』は、頭部及び上半身は塑土の表面と顔料が剥落して、石胎が露出している。下半身は塑土の表面と顔料がよく残っていて、大衣の赤と飄帯の青を見ることができるという。
無量寿仏及び観音・勢至菩薩
『永靖炳霊寺』は、この龕には、北魏の「大代延昌4年」と唐代の碑文が記されており、延昌4年(515)以前に造られたことがわかるという。
515年よりもずっと以前に造像されたと思われる。
それは、如来の体格が腕も太く逞しいのが18龕や4龕に近いためである。
如来は大衣を通肩に着て、折りたたまれたその端が肘よりも長く表されている。
北壁1龕 二如来坐像 塑造
『第169窟』は、高さ約0.50メートルの仏像が2体残ってる。如来は高い肉髻に方円形の顔、袈裟を通肩に着けて、結跏趺坐する。彫像の胸はひどく損傷しており、特に向かって右側如来は塑土が落ちている。頭光と光背は火焔文。二如来の光背の間に通肩の大衣を着た菩薩の半身像が描かれているという。
左肩から腕にかけて大衣の端が大きく表されている。小さな仏像で、面貌は似ていないが、3龕の如来坐像とあまり隔たらない時期の制作と思われる。
石胎塑造の如来坐像が5体、高さ0.50m-0.60m
『第169窟』は、右の二体は禅定に入った如来で、身体は石胎で、彩色が残っているという。
図版が上から見下ろしているからか、結跏趺坐した脚部が前に突き出て奥行がある。
北壁6龕 西秦建弘元年(420)頃 一仏一菩薩一天王像
無量寿仏(阿弥陀如来)坐像 総高1.55m
同書は、反花の蓮のうえに結跏趺坐し禅定印を結ぶ。高い肉髻、四角い顔、眉間に白毫、切れ長の目、高い鼻厚い唇。頚は短く、広い肩に細い腰、身体は逆三角形で腹部はわずかに出ている。僧祇支には十字亀甲文が描かれる。
身光は伎楽天が左右各5体描かれている。無量寿仏という四文字があるという。
『北魏仏教造像史の研究』は、炳霊寺西秦造像は十六国期の稀少な紀年造像であり、この時期の河西造像を理解する上で極めて重要である。420年頃はまだ北魏の勢力は陝西以西には及んでおらず、河西地区では西方からやってきた高僧を迎えて涼州仏教が盛行した。その後、431年に西秦が、439年に北涼が滅亡すると、涼州造像は一気に北魏の都平城にもたらされて、平城造像の最盛期を現出原動力となった。炳霊寺西秦造像に見られた涼州式偏袒右肩も、この時ようやく平城方面に伝えられたものと思われるという。
本像は涼州式偏袒右肩像の最初期のものとされている。
169窟最初期の如来立像と比べると、腕が細くなって、広い肩に細い腰という逆三角形の上体がよく表現されている。
北壁7龕 三如来立像うちの1体 高さ2.30m
『第169窟』は、広い肩、細い腰。通肩の大衣にU字形の衣文を線刻する。頭光と光背が残り、健康的な体で反花の蓮台に立つ。
大衣は蝉の羽根のように薄く、西域の影響を受けているという。
大衣の端はマフラー形だが、その上縁は波打つように薄い布であることを強調している。このことから、本像は直線的に表された通肩の衣端よりも後に制作されたと考えた。
また衣文はU字形が中央に重なるが、下図のマトゥラー仏は右よりに重なるという左右対称性を崩している。
5世紀前半のマトゥラ-仏 マトゥラー、ジャマールブル出土 グプタ期 マトゥラー博物館蔵
『中国の仏教美術』は、興味深いことは、5世紀前半のインド・グプタ期のマトゥラー彫刻にみられる特徴をいくつか備えている点である。まず第一に、マトゥラー仏立像の多くは等身大あるいは2m前後の大像であるが、炳霊寺7号立像もまた2.45mにおよぶ大像である。中国に現存する像の中で、「仏の像」をこれほど大きく表現した例は、この炳霊寺像が初めてである。
また炳霊寺仏立像7号立像は、マトゥラー仏立像と共通点がある。一つは衣が体に密着し、服を通して全身の体の線や、肩から肘にかけてのたくましい肉付けが見て取れる点である。さらに左右2本の腕から下がる衣端の細かいひるがえりの表現も、炳霊寺像とマトゥラー像の共通する特徴である。
5世紀前半のインド・マトゥラー彫刻のもつ特徴を、同じ5世紀前半に造られたと考えられる特徴を炳霊寺の像が備えていることは、文化伝播の速さという点で大変注目に値するという。
また炳霊寺仏立像7号立像は、マトゥラー仏立像と共通点がある。一つは衣が体に密着し、服を通して全身の体の線や、肩から肘にかけてのたくましい肉付けが見て取れる点である。さらに左右2本の腕から下がる衣端の細かいひるがえりの表現も、炳霊寺像とマトゥラー像の共通する特徴である。
5世紀前半のインド・マトゥラー彫刻のもつ特徴を、同じ5世紀前半に造られたと考えられる特徴を炳霊寺の像が備えていることは、文化伝播の速さという点で大変注目に値するという。
確かにこの如来立像とよく似ているが、マトゥラー仏にはマフラーのような衣端は表されない。
北壁9龕 三世仏あるいは三身如来立像 塑造
それぞれの如来立像は7龕の如来立像の様式を嗣いでいるが、左肩から腕にかけて添うマフラー型の衣端の表現がそれぞれに異なるので、7龕の如来立像を手本につくられたのだろう。
U字形衣文線は右寄りになっている。
北壁2龕 北壁外側上層中部 浅龕 龕残高0.90m、幅1.40m 挿し木と泥で浅龕を補強
『第169窟』は、二仏が残る。向かって左側は残高0.67m。高い肉髻、ふくよかな丸顔、耳は大きく通肩の大衣を着て結跏趺坐する。光背が一部残るという。
右側の如来は損傷がひどいが、左肩から腕にかけてかかる衣端に彩色が残る。
また、衣文線はU字形ではなくなり、片流れになっている。
東から2番目の如来坐像像高0.70m
如来は通肩に大衣を着る。その線刻の衣文線は片流れで、左肩から右腹部へと放射状になっている。通肩の端は左肩から腕、その下にまで達して広がっている。
両腕から垂れた大衣は丸い膝頭を覆うが、結跏趺坐した足がどこにあるのか分からない、特異な造形である。定印を結んだ手の下からおりた大衣の折畳文はごく小さい。
東側の如来坐像東如来坐像 高さ0.65m
『第169窟』は、高い肉髻、丸顔、長い眉細い目、高い鼻、微笑を浮かべた顔。
頭光、光背は彩色されているという。
衣文線は片流れで深く刻まれる。大衣を纏っているだけなので、丸首にはならないはずなのに、まるで縫い付けてあるように表現される。
西から1・2番目の如来坐像 高さ1.07m 5番目の高さ不明
大衣の衣端は左右両肩から腕にかけて垂れている。この龕の制作期には僧が大衣をまとうことがなくなったのだろうか。
炳霊寺石窟169窟23龕西二尊像 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
南壁22龕 一仏二菩薩像のうち
如来立像 高さ1.65m
同書は、高い肉髻、中に僧祇支を着て外は偏袒右肩に大衣を着る。左手は胸前で大衣の端を握り、右手は下げて衣端をつかみ、反花の蓮台にたつ。頭光と光背は内側から火焔文、如来坐像、連珠文が描かれるという。
7龕の如来立像よりも頭部が大きく、肩ががっしりとしていて、脚は短め。着衣の裾も短め。
光背の一番外側はパルメット文。
菩薩立像 高さ1.28m
脚部に密着した裙はこの時代の特徴だが、膝上から左右に開くのは珍しいのでは。
肩から両腕にかかり、肘の内側から垂下している披巾は、脚部の外側で風に揺れているような優美な表現で、やがて北魏時代に麦積山石窟100窟の菩薩立像へと受け継がれた。
ただ、両肩から肘まで、如来の通肩の衣端のように、披巾が添っている。これは23龕の如来にみられるものを真似たのではないだろうか。
『第169窟』は、龕内に唯一残る菩薩思惟像。高く髻を結い、長い眉細い目、顔は丸く笑みを浮かべる。胸飾りを首に付け、長髪は肩にかかり、上半身は裸で、長裙を履く。束腰座に坐り、三角の靠背は鱗文が描かれるという。
靠背は椅子の背もたれで、上部が広がって三角形状となり、カバーの布がその後方に垂れている。これは敦煌莫高窟275窟の菩薩半跏像(北涼、397-439)にも描かれている。
この菩薩の両肩から肘にも披巾が添っている。
西壁17龕 右脇侍菩薩像 像高2.35m
同書は、高く髻を結い、宝繒で飾る。裙を履き、飄帯は下に垂れている。右手は下げ、左手はあげている。反花の蓮台に立つという。
脚も長く、裙の衣文は膝下からU字形に線刻されている。
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