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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/10/01

通肩に大衣をまとう如来 


通肩という大衣のまといかたはガンダーラから始まった。

仏陀立像 2-3世紀 灰色片岩 高さ109㎝ ガンダーラ出土
『ガンダーラとシルクロードの美術展図録』は、典型的なガンダーラ仏立像。施無畏印という右掌を正面に向けて挙げるポーズは西アジアの神像・王像に、左手で衣の一端をとるのはローマの皇帝像に由来するという。
ガンダーラ美術はヘレニズムの影響と解釈されがちだが、仏像が制作される頃(後2世紀、後1世紀とする説もある)はローマとの交易が盛んで、ローマ文化の影響も受けている。
ローマの男性は、長い布を左肩後方に回して、背中に回した布の端を左手で握っているのだろうか。今までガンダーラ仏は見てきたが、この端がどこからどのように続いたものなのかを注意して見てこなかった。
背中側から長々と続いた衣端ではないにしたら、どこの衣端だろう。左腕から垂れるものとも思えない。
目立たないが翻波式衣文もある。翻波式衣文についてはこちら


仏坐像 3-4世紀 ガンダーラ 灰色片岩 高さ96.5㎝
『ガンダーラとシルクロードの美術展図録』は、両端にライオンを配した獅子座は西アジアに起源し、王権の象徴であった。仏教でも仏陀や弥勒菩薩の台座に用いられた。衣を台座正面に垂らす裳懸座はガンダーラに生まれ、東漸した表現であるという。
この如来が左手で握るのは巾着のようでもある。その巾着によって大衣が細かな襞をつくり、台座に懸かっているにも見える。どうも大衣の端には見えない。
ギリシア・クラシック期に始まった翻波式衣文がはっきりと現れている。


通肩に大衣を着た如来像はシルクロードを通って東漸し、中国へも伝わり、古式金銅仏と呼ばれるものが五胡十六国時代につくられた。幸いにも『中国の金銅仏展図録』には、小金銅仏の背面の図版が掲載されていた。


金銅如来立像 高さ15.8㎝ 五胡十六国時代(4-5世紀) 京都国立博物館(京博)蔵
『中国の金銅仏展図録』は、五胡十六国時代の唯一の如来立像である。肉髻に毛描きはせず、地髪部は太い黒線によって大きく区分けして中に細線で毛筋を刻すが、この線は、正面中央から両側に同心円状に展開する。
この時代の坐像と同じU字形衣褶で、大衣の端を同じく左肩より後ろに垂らす。左手に衣を掴み、指に関節を刻むという。
左肩に掛かった大衣の端は折畳文に近い襞が刻まれて、薄くて広い布が折畳まれた様子をよく表現している。その端は短いので、表側で如来が握るのは別の衣端ということになる。
蛇足だが、左下の大衣の裾の襞が折畳文にならずに動物の耳のような形が3つ付いている。これは騎馬遊牧民の好む貴石の象嵌に形が似ていること、内側がくぼみ縁が高くなっていることなどから、制作当初は貴石が象嵌されていたのではないだろうか。
金銅如来立像-五胡十六国(4-5世紀) 京都国立博物館蔵 『金銅仏展図録』より


金銅如来坐像 五胡十六国時代(4世紀) 高さ13.5㎝ 東京国立博物館(以下東博)蔵
『中国の金銅仏展図録』は、肉髻は大きく、上に孔があり、五胡系の肉髻は舎利容器に用いられたという言い伝えを信じさせる。
胸前の衣褶の片流れ、大衣の端を左肩より背後に垂らす方法も、フォッグ美術館像と類似し、地髪部正面のアーモンド形の毛描きも共に、ガンダーラ風が強く、中国初期の仏像が、中央アジアの仏像を通じて西方の様式を反映していることが分かるという
左肩の衣端が短冊状に付属する。
フォッグ美術館像の画像はこちら
金銅如来坐像 五胡十六国時代(4世紀) 『中国の金銅仏展図録』より

金銅如来坐像 五胡十六国時代(4-5世紀) 高さ14.7㎝
『中国の金銅仏展図録』は、肉髻が異様に大きく、舎利壺の役目をした名残りにも見える。衣褶は片流れであるが両腕より垂れる衣端が三角状に下に向かう点や台座両脇の獅子や、その内側の供養者らしい人物や指の関節の表現は東博像と異なり、フォッグ美術館像との繋がりを考えさせる。しかも台座は東博像と同様に横断面が半円形で、後頭部に枘をつけて頭光を備えていたことを示すなど、東博像とそれより古いフォッグ美術館像との両方に通ずる要素を持つ点が注目される。五胡十六国の如来坐像が以下の像のような形に固まる以前に多様な形体が存在したことを示す例であろうという。 
左肩より背後の背後にかかる衣端は幅広に折られている。
金銅如来坐像 五胡十六国時代(4-5世紀) 『中国の金銅仏展図録』より

金銅如来坐像 五胡十六国時代(5世紀) 高さ8.9㎝
『中国の金銅仏展図録』は、このタイプが五胡十六国仏の形体として固定したものであるらしく、現存のものでは最も多いタイプである。元は後頭部に頭光が取り付けられていたという。
左肩から垂れる大衣の端は上の像と同じように幅広に折りたたまれている。
金銅如来坐像 五胡十六国時代(5世紀) 『中国の金銅仏展図録』より


西秦は431年に滅亡する。北涼(匈奴沮渠氏、397-439)では北涼石塔と呼ばれているものが幾つか出土している。

高善穆北涼石塔部分 承玄元年(428)高44.6㎝ 酒泉城内出土 蘭州市甘粛省博物館蔵
『世界美術大全集東洋編3』は、7層の相輪の下に八つの仏龕をつくり、うち7龕には袈裟を通肩につける禅定印の如来坐像、残り1龕には化仏宝冠を戴き転宝輪印で交脚坐する菩薩像を半肉彫りで表す。これらが過去七仏と未来仏の計8軀であることは、他の作例に記された題記からも明らかであるという。
3体の如来坐像は左肩から衣端を背中側に垂らしているらしく、左肩から腕にかけて添っている様子はない。
高善穆北涼石塔部分 承玄元年(428) 甘粛省博物館蔵 『世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝』より

その少し後の通肩の仏像は、

金銅如来坐像 劉宋時代(南朝・宋)、元嘉14年(437) 高29.3㎝ 永青文庫蔵
『中国の金銅仏展図録』は、光背・台座も完備する南朝の数少ない仏像として貴重である。頭部は髪を大きな束に分けて細線を施し、京博像と同工の面がある。頬から首に至る面に区分がなく自然味を欠くが、着衣や印相、四脚座も五胡十六国仏と同工。
左肩に回る衣端が肩の外に僅かに張り出すのは太平真君像に似るという。
五胡十六国時代の如来像と異なる点として、表側に左肩から腕にかけて衣端が線状に添う。背中側を見ると、右腕に比べて左腕がやや張っている。
永青文庫蔵金銅如来坐像 南朝宋時代元嘉14年(437) 『中国の金銅仏展図録』より


如来立像 北魏・太平真君4年(443) 銅製鍍金 高さ53.5㎝ 
『小金銅仏の魅力』は、北魏金銅仏最古の紀年銘像で、スケールの大きな逞しい造形と肉体の起伏にあわせた着衣の写実的表現には、ガンダーラに起源をもつ中央アジアの彫像からの影響が考えられるという。
如来坐像のものは大衣の衣端は折りたたまれて左肩から背中に垂れているが、本像はその衣端が鰭のように左肩から腕にかけて続いている。

このように五胡十六国時代(304-439)において、通肩に大衣をまとう古式金銅仏には、通肩の衣端は左肩から腕にかけて表されることはなく、背中側に折りたたまれれて表現されていたが、炳霊寺石窟の169窟では、左肩から腕にかけて、幅広く衣端が表されている。


おまけ 菩薩立像とその後ろ姿
金銅菩薩立像 高さ33.6㎝ 西晋-五胡十六国時代(4世紀初) 伝陝西省三原県出土 藤井斉成会有鄰󠄄館蔵
『金銅仏展図録』は、束ね上げる髪、もみ上げ、口髭、耳や首の飾り宝櫃を両側から喰わえる獣頭付きの胸飾、腕釧、それらはいずれもガンダーラの菩薩像にみられる。出土地は古都長安の近くと伝えられるが、黒眼に象嵌のあとを残す眼やサンダルの着用などは独特であり、地肌のクレーター状の多孔から鉛含有量が多いと判断されるなど中央アジアとする説も古くからある。本像のように左手に瓶を持つ菩薩はガンダーラでは弥勒菩薩とされるという。
衣端には折畳文が表されている。
背中側の片流れの大衣の表現が京博の如来立像と似ている。しかし、裙や天衣の裏側は着衣らしい衣文は刻まれていない。
藤井斉成会有鄰󠄄館蔵金銅菩薩立像-西晋~五胡十六国(4世紀初) 『金銅仏展図録』より



関連項目

参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作隊・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「インド・マトゥラー彫刻展図録」 2002年 NHK
「パキスタン・ガンダーラ彫刻展図録」 2002年 NHK
「平山郁夫コレクション ガンダーラとシルクロードの美術展図録」 2002年 朝日新聞社
小金銅仏の魅力」 村田靖子 2004年 里文出版
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館
「仏教美術の名宝展図録」 2018年 泉屋博古館
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館