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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2024/03/29

アトメイダヌ広場で行われた行事


スルタンアフメットジャーミィ(ブルーモスク)近くのアトメイダヌ広場には、3本の柱が立っている。それはローマから東ローマ帝国にかけてヒポドローム(戦車競技場、ベンハーでやっていたような)
イスタンブール アトメイダヌ広場 Google Earth より


切石積みのオベリスク Örme Dikilitaş  ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス一世(在位306-337)頃
『望遠郷』は、アトゥ広場の南に立っている。高さ32mでかなり荒く切り出された石材でつくられている。ピエールジルはこの柱を「巨像」と記しているが、現代のほとんどの記述では「東ローマ皇帝皇子、コンスタンティヌスの柱」となっている。これらふたつの名前はそれぞれ、柱の台座のギリシア文字で刻まれている碑文からつけられたものと思われる。その碑文には、この柱とロードス島のコロッソスとを比較した内容が刻まれ、また傷みがひどっかたので、コンスタンティヌス七世が青銅で覆って建て直した、と記されている。おそらくコンスタンティヌス一世の時代につくられた柱であろうという。
ロードス島のコロッソスとは、ロドス島にかつて存在した巨像のこと。コロッソスは巨像という意味で、ローマのコロッセオは、かつてネロが黄金宮殿(ドムス・アウレア)近くに造った巨像の近くに、後に建造された円形闘技場ということに由来する固有名詞。
光が当たっているので白っぽいが、実際は美しいとは言えない。


三匹の蛇の頭がなくなってしまった蛇の円柱 
Yılanlı Sütun コンスタンティヌス一世が移設
『望遠郷』は、3匹の蛇が絡み合った形をしている。ギリシアが前479年にプラエーテでペルシア軍に勝ったのを記念し、三脚部に31の同盟ギリシア諸都市の名を刻んでデルフォイのアポロ神殿に奉納したものを、コンスタンティヌス一世がここに移した。3匹の蛇の頭はコンスタンティノープル陥落後、次々に失われたが、そのうちのひとつが1847年に発見され考古博物館に保存されているという。
しかし、この写真ではねじれた短い円柱が分かりにくい。

これだけしか残っていないが優美な囲いをしてある。小さくて地味なためあまり人だかりがない。
アトメイダヌ広場 蛇の円柱 イスタンブール歴史散歩より


ローマ帝国末期の皇帝テオドシウス一世(在位379-395)のオベリスク Theodosius Dikilitaşı は逆光なのか霞んで見えた。
『望遠郷』は、前16世紀のエジプト新王国時代にトゥトメ ス三世によって建てられたこのオベリスクは、高さが60mあった。しかし390年にテオドシウス一世によってコンスタンティノープルに移された際に破損し、上部3分の1の20mのみが設置されたという。

このオベリスクの台座 大村次郷写真
同書は、アトメイダヌにそそりたつオベリスクの台座は、ビザンツ人の手になる。この台座には桟敷からヒッポドロームでくりひろげられる競技を観るビザンツ皇帝とその一統の姿がきざまれているという
イスタンブール アトメイダヌ広場 テオドシウスのオベリスク台座 イスタンブール歴史散歩より


この三本の柱は、蛇の頭部が失われたとはいえ、競技場を広場としてオスマン帝国の時代でも残された。そして、そこでは1582年のムラート三世の息子の割礼の祝祭の細密画に残っていて、ムラート三世が見ている場面には蛇の円柱が中央に描かれている。

『トルコ文明展図録』は、スルタンムラト三世が、1582年に皇子メフメットの割礼にあたり催した祭典は、52日間昼夜をあげて続けられた。スルタンアフメット広場にあるアトメイダン(ヒポドローム)でおこなわれたパレードには、 イスタンブルの全職人組合が参加した。画家オスマンの指揮のもとに、宮廷画家たちがこの盛大な行事を見開きで1図,合計 250図のミニアチュールに描いた。それらの内215図が今日まで伝わっているという。


「祝祭の書」 トプカプ宮殿博物館蔵 写真大村次郷 1582-83年頃
『図説イスタンブール歴史散歩』は、1582年のムラト三世主催の割礼の祝祭のひとこま。図左上では、スルタンが桟敷からアトメイダヌでくりひろげられる催しを見物している。その右側の白帽赤衣の人物は、警備のイェニチェリであるという。
Google Earth の地図で見ると、この蛇の円柱の向かい側はスレイマン大帝の大宰相で、後にスレイマンに殺されたイブラヒムパシャの邸宅(現トルコイスラーム美術館)近くのはず。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 祝祭のパフォーマンス 図説イスタンブール歴史散歩より

少年ダンサーや楽士たち同書は、中央では、少年ダンサー(キョチェク)が踊りを披露している。左右では計5名の楽士が楽器を奏している。図下左から中央にかけて、イスラム神秘主義(スーフィズム)の教団(タリカート)の一つ、メヴレヴィ 一教団の修道者(デルヴィシュ)たちが4名並び、中央の2人は、メヴレヴィー教団を象徴する楽器であるネイ(葦製のたて笛)を奏し、右側の青衣のデルヴィシュは、旋舞(セマーイ)を行なっている。2人の間には、当時まだアトメイダヌに残っていたビザンツ時代にデルフォイ神殿から運ばれた3匹の海蛇の銅柱が見える。左端の柱はコロッススであるという。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 祝祭のパフォーマンス 図説イスタンブール歴史散歩より


綴織り職人たちの行列 「祝祭の書」より トプカプ宮殿博物館蔵 写真大村次郷
同書は、1582年の同業者団体の行列。綴織り職人たちが製品をかかげて、アトメイダヌを行進しつつある。図左上の桟敷からスルタンが見物しているという。
同じ年に描かれた二つの細密画なのに、この図では右の建物は2本のミナーレがあるのでモスクである。イブラヒムパシャの邸宅はどうなっているの? 切石積みのオベリスクとテオドシウスのオベリスクの並びからこの図はイブラヒムパシャの邸宅側に向かって描かれているし、反対側だったとしても、スルタンアフメットジャーミィはまだ建設されていないはず。
『トルコ文明展図録』は、画面右上部にはこの儀式のために特別に設置された観覧席に坐す内外の招待客がみられるという。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 綴織り職人たちの行列 図説イスタンブール歴史散歩より

その謎は『トルコ文明展図録』の解説で解けた。
画面左上部にはイブラヒーム宮殿に設けられた特別席から行進をみているスルタンと高官という。
スレイマン大帝の大宰相で、大帝に殺されたイブラヒムパシャの邸宅前だったのだ。大木を挟んだ右のモスクは、現在まで残らなかったのだろう。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 綴織り職人たちの行列部分 図説イスタンブール歴史散歩より

蛇の円柱の頭部は、蛇というよりも鳥のよう。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 綴織り職人たちの行列部分 図説イスタンブール歴史散歩より


トプカプ宮殿の厨房では、「祝祭の書」の中から下図のようなパネルがあった
右図はテオドシウスのオベリスクの向こうには三階建ての桟敷席に大勢の見物客が描かれ、広場を料理を盛った容器を抱えた人たちが行進している。
左面には特別の桟敷席で見物するムラート三世の前を料理人を乗せた山車が動いていく図の一部だけが紹介されていた。


左図は吹きガラスの山車、右図は吹きガラスの製品と見物客たち
『トルコ文明展図録』は、「祝典の書」のミニアチュールは、見開き頁をつかって描かれている。
上方イブラーヒムパシャ宮殿の特別席には行進を見守るスルタンムラト 三世と皇子メフメットの姿が、反対側では特別に作られた観覧席に招待客がみられる。画家オスマンの作風であるという。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 ガラス職人組合の行進 トルコ文明展図録より

同書は、左画面にはガラス炉をのせた車があり、 ガラス職人たちは炉のそばで瓶を吹いてい るという。
移動させながら炉を高温に保つのは大変なことではなかったのかななどと思ってしまう。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 ガラス職人組合の行進 トルコ文明展図録より

同書は、右画面では青ガラス製の水注、ポット、 香炉、砂時計などを頭上の盆にのせたり手にもって行進しているという。
当時は首の長い水注が流行っていたようだが、中には把手や蓋付の器も。
トプカプ宮殿蔵細密画 祝祭の書 ガラス職人組合の行進 トルコ文明展図録より


スレイマニエジャーミイの模型を運ぶ人々 「祝祭の書」より ナッカシュオスマン画
THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN』は、スルタンムラト三世の息子メフメトの割礼のお祝いは52日間続いた。
毎日、さまざまな職人組合がアトメイダヌ広場をパレードした。これらの行列はナッカシュオスマンの『Surname-i Hümayun』に描かれていて、この場面はスレイマニエジャーミィの模型を運ぶ人々を描いているという。
ナッカシュオスマン画「祝祭の書」よりスレイマニエジャーミイの模型を運ぶ人々 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN 

白いターバンを巻いたイエニチェリたちが模型を担いで行進している。

ナッカシュオスマン画「祝祭の書」よりスレイマニエジャーミイの模型を運ぶ人々 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN


『祝典の書』第34・35葉 生花業者の行進 1582年頃 トプカプ宮殿博物館蔵
トプカプ宮殿博物館蔵『祝典の書』第34・35葉 生花業者の行進 1582年頃 世界美術大全集東洋編17 イスラームより


ローマ帝国時代からオスマン帝国時代まで、同じ場所で晴れの行事を行っていたのは他にはないだろう。




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ローマ ネロの黄金宮殿・ドムス・アウレア1

参考文献
「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「トルコ文明展図録」 中近東文化センター 1985年 平凡社
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication