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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2024/04/05

マトラークチュの細密画


テレビドラマ『オスマン帝国外伝』では、マトラークチュ・ナスフ Matrakçı Nasuh は当時の出来事の記述をする書記のような役職の人だと思って見ていた。スレイマン大帝が遠征した時も同行していたが、地図などの細密画も描いているとは知らなかった。


イスタンブル絵図 『イラン遠征記の挿絵』 1537年頃 紙 長31.7㎝幅44.5㎝ イスタンブル大学図書館蔵
『図説イスタンブール歴史散歩』は、当時の宮廷絵師マトラクチュユースフの手になるこの絵図は、スレイマン時代のイスタンブルを知る上で、最良の手がかりである。図中、上がガラタ地区、右端がウスクダル、下が旧市街であるという。

ガラタ地区は、ガラタ塔はすでにあって城壁で囲まれていたが、ガラタ塔が北の端というとても小さな区域だった。それを南側から見た方向で描かれている。
イスタンブル大学図書館蔵イスタンブル絵図『イラン遠征記の挿絵』1537年頃 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より 
 

『図説イスタンブール歴史散歩』は、旧市街右上の白い城壁で囲まれた四角い部分は、ト プカプ宮殿であるという。
旧市街も城壁に囲まれていて、それが現在でもところどころ残っている。ガラタ地区とは違い、西側から見たように街の建物が描かれている。
イスタンブル大学図書館蔵イスタンブル絵図『イラン遠征記の挿絵』旧市街部分 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より


では旧市街を西から見たよう向きを変えてみよう。

トプカプ宮殿とアヤソフィア
トプカプ宮殿にはまだ現在残っているほど沢山の建物はなかったようで、建物を特定することはできない。広大な庭園、広い池があったのか、青い色に塗られた区域にも建物はわずか、そして黄色く塗られた広場にも丸い平面に円蓋のある建物がある。
メフメト二世がギリシア正教の聖堂からモスクに変えたアヤソフィアは、現在はミナーレ(ミナレット)が4本あるが、スレイマンの頃は2本しかなかった。それはコンスタンティノープルを攻略したメフメト二世とその息子バヤジット二世が献納したものだった。後の2本は、スレイマンの息子セリム二世がミマールスィナンに造らせたもので、その功績によって、アヤソフィアの境内に墓廟を建てたと何かの本で読んだ。
イスタンブル大学図書館蔵イスタンブル絵図『イラン遠征記の挿絵』トプカプ宮殿・アヤソフィア トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より


『図説イスタンブール歴史散歩』は、旧宮殿とト プカプ宮殿の間にはさまった赤い屋根の曲りくねった2棟の建物のあたりが、当時はまだ屋根で全部がおおわれていなかったグランド・バザー ルであるという。
トプカプ宮殿、アヤソフィアの東には植物の緑で見分けやすいアトメイダヌ広場。
広場には2本のオベリスクや蛇の円柱以外にも柱が立っていたようで、この図では右端が切れているが、アーキトレーヴで繋がった円柱列が半円形に並ぶローマ時代の遺構が当時は残っていたようだ。
カパルチャルシュ(グランドバザール)の古いものは二つのベデステンと呼ばれる建物で、小さなドームが縦横に並んでいた。それを繋ぐように商店街ができていった。
イスタンブル大学図書館蔵イスタンブル絵図『イラン遠征記の挿絵』トプカプ宮殿・アヤソフィア トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より

『図説イスタンブール歴史散歩』は、旧市街中央、赤い屋根ののった壁で囲まれた長方形の部分が旧宮殿で、のちにその上方に造営されるスレイマニエ・モスクはまだ存在していなかった。旧宮殿の左の白っぽいモスクが、ファーティフ・モスクであるという。
左ということは下の方で、白っぽいというより、クリーム色の大きな建物がファーティフモスクだと思う。
イスタンブル大学図書館蔵イスタンブル絵図『イラン遠征記の挿絵』トプカプ宮殿・アヤソフィア トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より


他にマトラークチュが描いたものとして、



レパント城図 『バヤジット記』の挿絵 1540年 紙・皮 長26.5㎝幅18㎝ トプカプ宮殿蔵
オスマン帝国海軍がヨーロッパ連合艦隊に大敗を喫したレパントの海戦は、1566年に没したスレイマンのあとをついだセリム二世の時代だった。
ギリシアを旅し時にナフパクトスという鄙びた港町を通った。このときにこの沖合でその戦いがあったことを聞いたが、当時はこんな街だったとは。
その時の記事はこちら
トプカプ宮殿博物館蔵マトラクチュユスフ画レパント城図 バヤジット記挿絵 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より


スルタニーエはイランを旅した時に訪れた。小さな集落の中心部に、かつて聳えていたイルハーン朝の囲壁の基礎部の中に青いドームをいただいたオルジェイトゥ廟だけが残っていた。
『ペルシア建築』は、ガーザーンの跡を継いだ弟のウルジャーイトゥーの治世(1304-16)になると、その命によって、スルターニエの美しい広々とした牧草地に驚異の新都市が出現した。この都市は帝国の首府たるべく計画されたものである。
着工は1305年、竣工は1313年のことで、建設工事は雄大にして、しかも迅速であった。結果として出現したのは、タブリーズとほとんど同じ規模を持つ大複合体であり、その中心部には、ペルシア建築の最高傑作の一つたるウルジャーイトゥー自身の墓廟がそびえ立っていたという。
トプカプ宮殿博物館蔵マトラクチュユスフ画スルタニーイェ絵図 イラン遠征の挿絵 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より 

この絵にはモスクに限らず、オスマン朝の特色である鉛筆のように細いミナレットが2本ずつ描かれているが、現存するオルジェイトゥ廟は八角形平面で、ドームの回りに円柱のようなものが幾本か立っている。下図のうち真ん中の建物と推測される。
レパント城といい、オルジェイトゥ廟といい、かつて訪れたところが、こんな風に絵図として残っていることに驚くと共に、マトラークチュにより親近感を持った。
トプカプ宮殿博物館蔵マトラクチュユスフ画スルタニーイェ絵図 イラン遠征の挿絵 トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録より


以上の細密画は街の様子を描いた地図で、そこには人物は描かれていない。マトラークチュは人物は描かなかったのだろうか。マトラークチュの作品だと思って以下の作品を追加したが、後になって作者名が記載されていないことに気付いた。


ロードス島を攻める若きスレイマン トプカプ宮殿博物館蔵 写真大村次郷
『図説イスタンブール歴史散歩』は、25歳で即位したスレイマンの第2回目の親征の目標は、ロードス島であった。1522年のこの遠征で、東地中海航路の安全を確保するのに成功した。本図上方の城内では、聖ヨハネ騎士団が防戦につとめている。右下、羽飾りのついたターバンをかぶった若きスレイマンが、馬を進めている。左手中程では、イェニチェリたちが、城兵に銃撃を加えている。左下では、地下道を掘って城内に突入すべく、作業が進められつつあるという。
若きスレイマンは丸顔で、他の兵士たちと似たような顔に描かれている。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 ロードス島を攻める若きスレイマン 図説イスタンブール歴史散歩より


壮年のスレイマン 画家不明 写真 大村次郷 
『図説イスタンブール歴史散歩』は、スレイマン大帝は、黄金時代の君主であったばかりでなく、容姿の上でも、オスマン朝歴代中屈指の好男子であった。若年時には、色白でふっくらした貴公子であったらしいが、壮年期から老年期に入ると、面長で厳しい風貌をそなえるようになった。晩年のス レイマンは、公式の席ではほとんど表情を変えることもなく、顔色は青白かったという。
若い頃は色白でふっくらしていたのだったら、上図はスレイマンの顔を良く描いていることになる。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 壮年のスレイマン 図説イスタンブール歴史散歩より


御前会議の細密画 画家不明 トプカプ宮殿博物館蔵
『図説イスタンブール歴史散歩』は、今、図の中央左手の「ドーム下の間」で、帝国の最高政策を決定する「御前会議」が開かれている。左端に5人並んで着座しているのは、大宰相を筆頭とする宰相たちであろう。その上に二人並んで着座しているのは、「軍人の法官」たちであろう。左端の小部屋では、二人の小姓を従えたスルタンが、小窓から会議の様子を見守っている。ホールの上の二つの小部屋のうち、左側では、書記たちが座って書類を書いている。右隣りでは、財務官僚が、貨幣を計っている。その外には、役人たちが控えているという。
人物の描かれる方向が縦と横になっているので分かりにくい。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 御前会議 図説イスタンブール歴史散歩より

宰相たち 写真 WPS
同書は、ターバンをかぶり、長衣カフタンをまとって正装した宰相たちは、ほぼ皆、ひげを蓄えている。宰相、とりわけスルタンの絶対的代理人として絶大な権力を有する大宰相は、オスマン朝に仕える全官人の憧れの地位であったという。
髭がないのは、若いながら宰相に選ばれた人物だろうか。
背後の壁面に幾何学文様が描かれている。
トプカプ宮殿博物館蔵細密画 御前会議部分 図説イスタンブール歴史散歩より


トプカプ宮殿至福の門
『図説イスタンブール歴史散歩』は、トプカプ宮殿の第2の中庭と第3の中庭をへだてる屋根つきの門は、「至福の門」と呼ばれた。「至福の門」は、スルタンの私生活の場への正式の門口であり、この門を出入できる者は、ごく少数に限られていたという。

至福の門
同書は、第2の中庭で、スルタン臨席の下に儀式の行なわれるときには、スルタンの玉座は、この門のまん前におかれたという。

この小さな出っ張りがスルタンの玉座を置く目印


至福の門を出ると謁見のための建物がある。

内部は簡素なものだった。

ソファというよりも、巨大なベッドのようなものがある。スルタンはここで諸国の大使たちと謁見したという。

謁見の間を出ると黒と白の大理石による大きな幾何学文様のバルコニーがある。


後半はマトラークチュとはどんどんかけ離れてしまった。




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参考文献
「トルコ・トプカプ宮殿秘宝展 オスマン朝の栄光展図録」 1988-89年 中近東文化センター・朝日新聞社
「図説イスタンブール歴史散歩」 鈴木菫著・大村次郷写真 1993年 河出書房新社 
「ペルシア建築」 SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会