169窟には少ないが仏画も残っていた。
『永靖炳霊寺』は、中央に禅定する如来、右脇侍菩薩と左に天王像。
仏陀坐像の上に天蓋と2人の飛天が描かれている。光背には供養菩薩、頭光には9体の如来坐像、龕左側に故事が描かれている。
この龕には、北魏の「大代延昌4年」と唐代の碑文が記されており、延昌4年(515)以前に造られたことがわかるという。
天王像の右壁や如来との間に描かれている。
飛天
『第169窟』は、上半身裸で裙を履いて体をV字形に曲げる。長い帯は飄々として、風に向かって舞いながら飛ぶという。
飛天が首から腕にまとつているのは天衣で、渦巻き状に空中を舞うのが飄帯?
因縁故事図 3龕外側
同書は、長方形仕切りと帳の間に、釈迦、婦人と侍女が描かれているという。
婦人とは、釈迦の生後間もなく亡くなって兜率天にいるという母摩耶夫人のことだろうか。
『中国石窟 永靖炳霊寺』では、上段は涼州式偏袒右肩の着衣の如来が蓮華座に善跏趺坐(倚坐)し、右手を挙げて説法している。その前に鳥が一羽いる。菩薩は宝冠を被り、披巾を着けて半跏する。後方に菩薩が一人地面に跪いている。その上部には帳が描かれる。因縁故事の一つだが、内容は不明という。
どちらが正しいのだろう。
『中国石窟 永靖炳霊寺』は、浅い龕で龕号がない。塑像はなくなり、後壁の壁画が残る。壁画は菩薩像で、顔はなく、裙を履いて蓮台に立っているという。
6龕 一仏二菩薩像 西秦建弘元年(420)頃
左脇侍菩薩の上部から向かって右方向に仏画が描かれている。
『第169窟』は、高い肉髻、通肩に大衣を着て、禅定印を結び、反花の蓮台に結跏趺坐する。着衣の衣文は墨線で描き、頭光と身光があるという。
短冊状の区画に十方(東西南北、北東、南東、南西、北西、上方、下方)の各如来の名称が記されている。
弥勒菩薩図 像高0.67m
炳霊寺石窟169窟6龕 西秦 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
弥勒菩薩図 像高0.67m
左脇侍菩薩の右隣に小さく描かれている。
『中国石窟 永靖炳霊寺』は、宝冠を被り、上半身は裸で、首と胸に項圏と瓔珞、腕には臂釧と腕釧をつける。裙を履き、肩には長い披巾を巻いて風の中で舞っているように見えるという。
左脇侍菩薩の天衣?披巾?よりも軽く風に揺れるような感じがする。
同書は、頭部は残っておらず、通肩に大衣を着て、右手を挙げ、左手は下げて大衣の端を握る。反花の蓮台に立ち、頭光身光が描かれているとう。
頭部から左足にかけて崩落があったようで、頭部のすぐ上にある天蓋半分は失われている。
光背は主に火焔文で装飾される。
見落としそうだが、緑色の大衣の縁飾りに折畳文が表されている。西秦時代の着衣には、折畳文はないのかと思っていたが、陰影を施すなど、かなり凝って描かれている。そういえば、右㛵照りの弥勒菩薩の天衣?にも大きさを変えて3段の折畳文が描かれていた。
供養者図 4男4女
炳霊寺石窟169窟6龕 西秦 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
供養者図 4男4女
同書は、供養者は蓮華を持つ者もあり香炉を持つ者もある。皆襟を合わせ、広い袖の衣装をまとい、裙を履く。
最後尾の女性は両手で曲がった蓮華の茎を持ち、前傾姿勢で、袖の大きな袍服を着ている。豪華な衣装で敬虔な表情をしているという。
西秦は鮮卑族乞伏部の王族が支配した国であるが、供養者たちは漢族の服装で描かれている。供養者一族が漢族だったのだろうか。匈奴の敦煌莫高窟275窟(北涼)の供養者たちは短い上着を帯で締める、騎馬遊牧民の服装なのに。
『五胡十六国 中国史上の民族大移動』は、西秦は漢人豪族の多数居住する隴西を中心とした小国である。官制・軍制は漢魏以来の形態をとり、その就官者も乞伏氏中心であるが、漢族や羌族・丁零も多く進出している。
かなりな程度漢化が進んだ政権である。9年間の中断をはさんで37年間というこの時期の「十六国」としては比較的長期間存続し、年号も制定したが、一時は後秦に完全に服属した時期もあったという。
西秦は拓跋氏よりもずっと早く漢化が進んでいたみたい。
建弘元年(420)と記された題記及び供養者図
炳霊寺石窟169窟6龕 西秦 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
建弘元年(420)と記された題記及び供養者図
炳霊寺石窟169窟6龕題記及び供養者図 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
7龕東側
『第169窟』は、崖壁面に木の杭をさし込んで上に縦横に枝を組み、蓮弁形の光背を塑土でつくったという。
三如来立像の現存する一体と梯子の間に壁画が残っている。
炳霊寺石窟169窟7龕周辺 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
わずかな空間に貴重な壁画が残っていた。
炳霊寺石窟169窟7龕周辺 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
『第169窟』は、もとは一仏二菩薩像が描かれていたが、現在は一菩薩のみ。題記に「得大勢至菩薩」とある。菩薩の背後には供養者が並ぶ。上段は女性で髪を高く結い、両手で博山炉持つ。下段は男性でその一番前の者は大衣を肩に半分かぶり、香炉を持つという。
9龕(三如来立像)下の10龕及び東側の11龕
『第169窟』は、9龕の如来の右側が剥がれて、古い仏画が露出している。露出部分は高さ0.70m、幅0.36m。上段は如来坐像、墨書された名称は「釈迦文仏」で、その右側の一菩薩は「文殊菩薩」。下段は2供養者という。
10龕
『第169窟』は、壁画は2層あって、上層は一仏二菩薩像だった。釈迦如来は天蓋が頭頂にかかり、涼州式偏袒右肩に内着の僧祇支を着て結跏趺坐し、説法印を結ぶ。光背は連珠文と火焔文で飾られている。
左の菩薩は失われる。右の菩薩は宝冠を被り、長髪は肩にかかり、首に項圏を付ける。短冊に「維摩詰の像」と書かれているという。
下層文殊菩薩
『炳霊寺』は、169窟では最も早い画像の一つである。造形は古拙で線描は粗い。河西地区の魏晋墓の遺風を留めているという。
下層というのは、上図制作以前に描かれていた仏画で、その上に塑土を塗り新たに描かれたのが上層の仏画である。上下といっても同じ西秦時代なのに、こうも画風が異なるとは。こういう画風は嫌いではありまへんが😅
魏晋墓(西晋墓、4世紀前半)の絵画はこちら
11龕 高さ2.00m、幅0.90-1.10m
『第169窟』は、平らに整備されていない崖面に塑土を塗り、壁画を描いた。ここには分けることができない4組の仏画が描かれているという。
1層目 高さ0.50m、幅0.70m
二如来立像 高さ0.37m
『第169窟』は、大衣を通肩に着て、向かって右の如来は右手を挙げ、左手で大衣の端を握る。反花の蓮華の上に立つ。左下に供養者が二人描かれるという。
蓮子も描写され、ふっくらとした花弁は受花のように見える。如来はその上にどっしりと足を開いて力強く立つ。
2層目 高さ0.54m、幅0.98m
一仏二菩薩の説法図 如来高さ0.28m
同書は、画面右側に一仏二菩薩の説法図。高い肉髻の如来は通肩に大衣を着て蓮台に結跏趺坐する。頭光と光背がある。如来の前には蓮池が描かれる。
脇侍菩薩は髻を高く束ねて宝繒で飾り、偏袒右肩に大衣を着て両手を前に伸ばす。手には蓮枝をもち、蓮華のうえに立っている。左脇侍菩薩の名は月光菩薩、右脇侍菩薩は華厳菩薩。
左上には飛天、その下には女性の供養者が3人。簡潔明快な絵であるという。
月光菩薩と華厳菩薩は阿弥陀如来の二十五菩薩の中にみられる菩薩である。ということは中尊は説法する釈迦ではなく、阿弥陀如来?
寄進者の女性たちは胡服ではなく漢族の服装をしている。
左側 説法図 如来高さ0.26m
『第169窟』は、一仏二菩薩像。如来の上には天蓋。高い肉髻、通肩に大衣を着て右手を挙げ左手は右手の肘を持つ説法印。束腰座に半跏趺坐する。無量寿仏と名が記されるという。
中央 説法図 如来高さ0.26m
同書は、頭上に天蓋。高く丸い肉髻、涼州式偏袒右肩に大衣を着て内着は僧祇支。反花の蓮台に結跏趺坐する右上方に「無量寿仏」と記されるという。
右側 維摩経変図 画面高さ0.25m、幅0.36m
同書は、長方形の帳の中に二人がいる。一人は髪を高く髻に束ね、偏袒右肩に大衣を着て、頭光があるのは「侍者の像」と記され、帳の中に病で臥して、頭上に天蓋がある方は「維摩詰の像」と記される。
これは中国石窟の中で最も早い維摩経変図であるという。
4層目 二仏並坐図 高さ1.10m、高さ0.50-0.70m
剥落箇所の左下には一仏二菩薩像などの説法図が複数並んでいる。
剥落箇所の上は大きめの如来像などが薄らと残り、下は経文らしきものが墨書されている。
塔身と基壇の間に受花があり、塔身の上に連珠文、三角文、組紐文が描かれるという。 今まで仏教美術で三角文は見た事がない。
炳霊寺石窟169窟11龕3層目仏画 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
『第169窟』は、二仏の上に相輪のある柱龕内に二仏が坐って説法する。二仏の上に天蓋があり、高い肉髻、半披肩式に大衣を着、蓮華座に倚坐し、説法印を結ぶという。
二仏並坐について『中国石窟芸術 炳霊寺』(以下『炳霊寺』)は、「妙法蓮華経・見宝塔品」に依拠して制作された釈迦・多宝如来の並坐像であるという。
二仏並坐像は、炳霊寺石窟に限らず、北魏時代に流行した図像であるが、それがすでに西秦時代に描かれていた。しかも三柱九輪塔に似たものが描かれている。
12龕 11龕の東側 高さ2.40m、幅3m
『第169窟』は、整地されていない崖面に塑土を塗って描かれた。
中央に一仏二菩薩の説法図。周囲に飛天、小如来坐像、供養者など20余像。これは169窟で最大の規模で、最も完全な説法図であるという。
釈迦如来坐像 高さ0.86m
同書は、高く丸い肉髻、顔は丸く、細い眉大きな目、鼻筋は通り、口元はわずかに閉じ、眉、目、鼻梁に白い暈繝を施す。首は短く涼州式偏袒右肩に大衣を着、内着は僧祇支で反花の蓮台に結跏趺坐する。
蓮華座の下に渦を巻いた水波文が表され、頭上には蓮華が菩提樹に組み込まれた図案となり、頭光身光は火焔文である。
両側に脇侍菩薩が侍す。左脇侍菩薩は高さ0.97mで、花冠を戴き、大衣を通肩に着て身体を曲げ、蓮台に立つという。
右脇侍菩薩と胡人像 脇侍菩薩高さ0.74m
『第169窟』は、右脇侍菩薩は横向きで、華蔓冠を被り、丸顔で長い眉細い目、鼻筋が通り、小さな口に厚い唇。眉、目、鼻には隈取りがある。
胡人は蓮台に立て膝に坐り、外道或いは胡人が如来に説法を乞う場面であるという。
西秦は鮮卑族の乞伏氏が建てた国だから胡人なので、異教徒も仏教に帰依するという場面だろう。
二飛天図 長さ0.25m
同書は、2飛天が如来に向かって横向きで飛来する。上半身は裸で、長裙を履く。裸足で身体をU字形に曲げる。飛天は左手で連枝、右手で華盤を持つ。
その下には如来立像が一体描かれる。高さ0.13mで、高い肉髻、頭光と光背があり、白色で右手は施無畏印、左手は袈裟の端を握り、蓮台に立つという。
西秦時代にすでに顔や腕、身体の筋肉などに赤く隈取りして、立体感のある描写が行われていた。
如来坐像、供養比丘図 説法図上部 高さ0.18-0.25m
同書は、現存するのは11体。如来は通肩に大衣を着て禅定印を結び反花の蓮台に結跏趺坐する。短冊状の墨書銘があるという。
『第169窟』は、上部中央に宝塔のような刹柱相輪があり、相輪の間に「多宝如来住地・・・・説法・・・・」とある。これは釈迦と多宝如来が並坐して説法する場面である。
左に菩薩の上半身。相輪の左右に一飛天、右側に化生童子が描かれるという。
11龕4層目の三柱九輪塔に似た塔の中に、天蓋が2つ描かれているので、その下で釈迦如来と多宝如来が説法していたのだろう。
14龕上方
その下から右の方には大きな剥落があるが、仏画も残っている。
炳霊寺石窟169窟13龕刹柱相輪図 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
剥落箇所の左下には一仏二菩薩像などの説法図が複数並んでいる。
炳霊寺石窟169窟13龕刹柱相輪図 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
剥落箇所の上は大きめの如来像などが薄らと残り、下は経文らしきものが墨書されている。
14龕東側
説法図及び供養者3名
一仏二菩薩像
『第169窟』は、如来は反花の蓮台に結跏趺坐し、説法印を結ぶ。内着は僧祇支で、偏袒右肩に大衣を着る。頭光と光背があり、傍に脇侍菩薩が描かれる。
両脇侍菩薩は、上半身は裸で裙を履くという。
左脇侍菩薩の裙は、ギザギザの折畳文が少しだけ描かれる。
供養者
西秦は鮮卑族なのに胡服(騎馬遊牧民の服装)を着ていない。同じ鮮卑族の北魏(拓跋部)は胡服の着用を禁止したのが494年(孝文帝の洛陽遷都に合わせた)。それ以前に漢族の服装をした五胡十六国の胡族がいたのだろうか。それともこの人たちは漢族?
炳霊寺石窟169窟14龕東側供養者図 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
15号龕 西壁前千仏壁 西秦 墻壁 高さ3.52m、幅4.78m、奥行0.50m
『永靖炳霊寺』は、千仏は縦に22像、横に54像が整然と並ぶ。墻壁は北壁の無量寿仏龕の前にあり、その制作時期は背後の西秦建弘元年(420)より後であるという。
千仏はすべて通肩に大衣を着て蓮台に結跏趺坐し、大衣で手を隠している。頭上には天蓋がかかる。
19龕 千仏壁
17龕の右脇侍菩薩像のそば。西壁18龕下 塑土でつくった墻壁
高さ2.06m、残幅2.95m、厚さ0.28m
『第169窟』は、反花の蓮台に結跏趺坐し、禅定印を結ぶという。
『第169窟』は、方形塔墓の中央に比丘の図がある。その両側に墨書の題記があるという。
描かれた比丘とは墓主のことだろう。
炳霊寺石窟169窟23龕西側 覆鉢形宝塔 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
塔身と基壇の間に受花があり、塔身の上に連珠文、三角文、組紐文が描かれるという。 今まで仏教美術で三角文は見た事がない。
比丘の下には受花の蓮華が描かれているが、これはその下の二如来坐像の間から出た蓮華。
炳霊寺石窟169窟23龕西側 宝塔題記 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より |
24龕 東壁最上部 崖面に塑土を塗って面を整え、壁画を描く。 高さ3.0m、幅5.70m
15龕の千仏図は上下左右に整然と並んでいた。19龕の千仏図も良く並べて描かれていた。ところがこの千仏図は、かなり不揃いなのが一目でわかる。
その差は、平たく造った壁面と、自然の崖の凹凸ある壁面であること、そして、何よりも足場が悪いことだろう。
そのほかに不揃いな理由として、一仏二菩薩像などが千仏の間に描かれているから。
炳霊寺石窟169窟東壁最上部 24龕 千仏図 西秦 『第169窟 西秦』より |
そのほかに不揃いな理由として、一仏二菩薩像などが千仏の間に描かれているから。
一仏二菩薩像
『第169窟』は、24龕の中央に一仏二菩薩の説法図がある。如来は蓮台に結跏趺坐するが、頭部が失われている。内着は僧祇支で涼州式偏袒右肩に大衣を着る。
両脇侍菩薩は、高い髻に宝冠をつけ、上半身は裸で、瓔珞を胸前で交差させる。両肩から垂れた披巾は肘下で内側に回る。眉と鼻筋は白い隈取りがあるという。
菩薩の披巾や如来の着衣の縁、光背の輪郭線などの緑色が鮮やか。両脇侍菩薩の左右対称に踊るような動きも目立つ。
説法図の周囲に千仏が描かれる形式で、河西地区、敦煌莫高窟、酒泉文殊山、張掖金塔寺など北涼の石窟内にあり、最も早い仏教壁画の主題の一つであるという。
左脇侍菩薩
もう一つの説法図は、如来の光背や両脇侍菩薩の着衣の白色が静かな説法の場面を表している。
同書は、釈迦、多宝如来の二仏並坐説法図。如来は偏袒右肩に大衣を着て、相輪刹柱龕内に坐すという。
説法図 南壁と接するところ
同書は、一仏二菩薩の説法図。如来は通肩に大衣を着て、禅定印を結び、結跏趺坐する。両脇侍菩薩は通肩に大衣を着て坐る。下側には千仏図が描かれるという。
一仏二菩薩像は、如来は坐っていても脇侍菩薩たちは立っているものだが、ここでは確かに坐っている。
現在では赤い岩肌に圧倒されそうだが、西秦時代は一面が鮮やかな色彩で荘厳された、さぞ素晴らしい窟内だったことだろう。
関連項目