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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/09/10

炳霊寺石窟その他の窟の仏画 西秦か北魏か


『中国石窟 永靖炳霊寺』(1989年発行、以下『永靖炳霊寺』)では時代付けが西秦-北魏とされていたものが、『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』(2021年発行、以下『第169窟』)では西秦となっていることが多い。また、『中国石窟芸術 炳霊寺』(2015年発行、以下『炳霊寺』)も異なる時代としていたりする。
こんな場合は、研究が進んだとみて、新しく発行された本の情報を選ぶことにしているのだが、今回の仏画に関しては、そうとも言い切れないものがあった。
  

195窟(仏爺台)
『永靖炳霊寺』は、炳霊寺石窟群から北の山に沿って約1km、崖の西側に仏爺台と呼ばれる自然の洞窟がある。壁画は洞窟の入口の上に残っており、石窟内には残っていない。
洞窟は高さ1.60m、幅2.50mという。
炳霊寺石窟仏爺台 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

入口上部にある壁画
炳霊寺石窟仏爺台 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

外観 自然の洞窟を利用した石窟入口の上側に、わりあい大きな仏画が残っている。
向かって左から白く塗られた矩形の仏画が2つ、その右に如来坐像と如来立像、その続きにも描かれた痕跡がある。
炳霊寺石窟195窟(野鶏溝)窟口上 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

その中で何が描かれたか分かるものは下図の3点、左から一仏二菩薩の説法図、中央に如来坐像、右側に如来立像である。
炳霊寺石窟195龕(仏爺台)壁画 西秦-北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

一仏二菩薩説法図 『永靖炳霊寺』は西秦-北魏、『炳霊寺』は北魏、『第169窟』は西秦と、それぞれ時代付けが異なっている。
『第169窟』は、頭頂には樹木型の天蓋。如来は中央に高く丸い肉髻があり、顔が丸い。内着の僧祇支には梅花文、偏袒右肩に大衣を着て結跏趺坐する。左手は袈裟の端を握るという。
如来は右肩を出して右手を挙げ、右足を下ろし、左足を右膝に乗せて坐っている(半跏)ように見える。如来半跏像というのはないはずだが・・・

同書は、脇侍菩薩は両側に立ち、宝冠を被り、顔には照り隈がみられる。右脇侍菩薩の裙は、裾に梅花文があるという。
この中尊の頭部は169窟16龕の如来たちに似ている。逆三角形の上半身とがっしりとした体付きなど共通の表現なので、西秦時代に描かれたものとみて良いだろう。
炳霊寺石窟195龕(仏爺台)壁画 西秦 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

樹木型の天蓋といい、如来の僧祇支といい、如来の裙といい、文様が丁寧に描かれている。
天蓋は3つ一組の白い文様があって、花か実を表している。3つに拘らなければ、釈迦がその下で悟りを開いたという菩提樹を描いたとしたら、これは菩薩であった釈迦が悟りを開いた瞬間を描いた図なので、釈迦はまだ結跏趺坐していないという風にも解釈できる、かな🤔
如来の僧祇支は小菊のような小さな花弁の花の文様で、脇侍菩薩の裙と同じ。
炳霊寺石窟195窟説法図部分 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

樹木型の天蓋の傍には開花蓮華と化生童子らしきものが描かれている。
炳霊寺石窟195窟説法図部分 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


如来坐像と如来立像 
『永靖炳霊寺』は、右側には結跏趺坐した如来と立像の如来が描かれ、左の絵よりも造形力がはるかに劣っていて、彩色も単調で、西秦時代の壁画と北魏時代の画風の違いである。169窟の壁画とは大きく異なるとして、如来立像と坐像を北魏に時代を下げている。

しかしながら『第169窟』は、画面右側には如来坐像と立像が描かれる。
如来坐像は高い肉髻で顔は白く、眉間に白毫があり、両目は下を向き、僧祇支の内着を着、偏袒右肩に大衣を着て、禅定印を結び、蓮台に結跏趺坐する。
如来立像は、高い肉髻、眉、鼻、目に照り隈、内着は僧祇支で、偏袒右肩に着た大衣は、表が紅色、裏が緑で、右手は与願印、左手に鉢を持つ。光背に火焔文があるとして、時代は西秦としている。

中央の如来は偏袒右肩で結跏趺坐する。大衣は表布が褪色、裏布が緑色。向かって左側の如来は立像で表される。坐像の如来と同じ色の大衣をはおっているが、右肩から腕にかけて裏布を出していて、このような着方は今まで見た事がない。
炳霊寺石窟195龕(仏爺台)壁画 西秦 『中国石窟 永靖炳霊寺』より


192窟(野鶏溝)窟口 
『第169窟』は、169窟の北0.75㎞に位置する天然洞窟という。
炳霊寺石窟192(野鶏溝)窟口 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

192窟 亀裂の左は4龕、右は2龕 『炳霊寺』は全て北魏、『第169窟』は西秦
『第169窟』は、北壁中間に残る。一幅は一仏二菩薩説法図で、左側は菩薩思惟像であるという。
この崖面には説法図も複数描かれているようだ。
炳霊寺石窟192窟(野鶏溝)北壁 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

向かって左 菩薩思惟像
同書は、上半身は裸で、長い裙を履くという。
半跏ではなさそう。

向かって右 
右側に上半身は裸の脇侍菩薩像と上半身裸で赤い裙を履く菩薩が描かれているという。
藍色で幅広の披巾あるいは天衣が風に翻っているような描写で、白い上半身で白い裙を履いている菩薩像。
そして青い縁取りの赤い大衣を偏袒右肩に着て、白い僧祇支を内に着けた如来が高い台座に結跏趺坐し、左脇侍菩薩が剥落してしまった一仏二菩薩説法図のように見える。
炳霊寺石窟192窟(野鶏溝)4龕北壁 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

一仏二菩薩説法図 像高1.30m 幅0.80m
『第169窟』は、中央の如来は低い肉髻で顔は細い。僧祇支を内に着、涼州式偏袒右肩に大衣を着て説法印を結び、反花の蓮台に結跏趺坐するという。
紺色の頭光には蓮華文、舟形(蓮弁形)の挙身光はパルメット蔓草文様が描かれる。
おそらくラピスラズリで彩色したであろう如来の光背と着衣は、今でもくっきりと細部がわかる程である。
着衣が台座よりも長くなり、右足が出るのは北魏前期だと思っていたが、西秦時代にすでに出現していた。

両脇侍菩薩は侍して立ち、髻を高く結って花鬘冠を被る。両肩を覆った披巾は胸前で下に垂れる。長い裙の衣褶が煩雑で、蓮華のうえに立つという。
左脇侍菩薩は細身で西魏時代の秀骨清像のよう。長い髪は蕨手となって両肩から腕にかかる。
裙の裾にも紺色の衣端が見え隠れするのは、折畳文をだろうか。

説法図の下には供養比丘が一体、顔は俊秀で、その両側には題記が書かれているという。
比丘らしく大衣を偏袒右肩に着ている。この比丘の着衣にさえ高価なラピスラズリを使えるほどに裕福な人物が、この一仏二菩薩像を献納したのだろう。そして、供養者自身がこの比丘かも。
炳霊寺石窟192窟(野鶏溝)4龕北壁一仏二菩薩像 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

『第169窟』は西秦にしているが、『炳霊寺』では北魏とする。
左脇侍菩薩の細長い顔、蕨手が肩から腕にかけてくっきりと描かれていることなどから、北魏のように思える。
如来は涼州式偏袒右肩で大きな蓮台に結跏趺坐していて、裳裾が品字状に折りたたまれているところなどが北魏に入ってからの制作を思わせる。
炳霊寺石窟192窟(野鶏溝)北壁4龕一仏二菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

2龕 
頭光が緑色の大きな如来の前に青い長衣の小さな菩薩が立つ。説法図かな。
もっと端寄りには黒い着衣の比丘?下方には小さな比丘たちが同じ方向を向いて立つ。どんな場面を表現しているのだろう。
炳霊寺石窟192窟(野鶏溝)2龕北壁仏画 西秦 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

2龕左上 
一仏二菩薩の説法図断片いや中尊は菩薩やないの。左脇侍の大きさからすると、この中尊は坐像かな。
炳霊寺石窟192窟2龕仏画 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

西秦時代の如来なら、下図と同じように小さな丸い肉髻があり丸顔なのだが、この主尊には肉髻がないのではなく、菩薩なので髻を高く結い宝冠を被って飄帯で留めているのでは?逆三角形の顔なのも不思議。
中尊は両肩から腕にかけて蕨手が描かれている上に、首に幅広の項圏を巻き、両手首に碗釧を巻いている。菩薩の特徴ばかりが目に付く。
この蕨手、驚いたことに法隆寺金堂釈迦三尊像の脇侍菩薩の肩から腕に連なるものとよく似ていた。そして、中国では麦積山石窟127窟西壁の脇侍菩薩のものとも共通する。でも西魏時代(535-556)だけど・・・
『炳霊寺』は北魏としているが、その後の西魏😲
炳霊寺石窟192窟(野鶏溝)北壁2龕一仏二菩薩像 北魏 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

野鶏溝北壁東側千仏図 残高1.10m、幅1.60m
炳霊寺石窟192窟(野鶏溝)北壁千仏図 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

千仏及び菩薩図 西秦
『第169窟』は、基本的には千仏を描いている。残っているのは4段。千仏の平均の高さは0.20m。
高い肉髻、通肩の大衣、禅定印を結び、反花の蓮台に結跏趺坐する。頭光身光、頭上には天蓋がある。千仏図の形式は、169窟北壁12龕上部の千仏と同じであるという。
12龕上部の千仏はこちら
着衣は緑色が多いが、中には白色や褐色の大衣を着るものもあり、全て通肩である。
一仏二菩薩の説法図は、画面左下の細長く残っている箇所に、如来坐像と立像の菩薩が描かれているように見えるので、このことかな。
炳霊寺石窟192窟(野鶏溝)一龕北壁千仏図 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


184窟(老君洞)北魏 平面横長方形、正壁(西壁)から突き出した中心柱窟
中心柱窟についてはこちら
『永靖炳霊寺』は、大寺溝入口の姉妹峰の下、高さ約70m、大寺溝石窟群から1㎞離れたところに、炳霊寺石窟ではあまり見られない鏨で掘った大型石窟がある。
その前には如来立像があるが、後世に道教君坐像に改変された。
早期に窟内全面に壁画が描かれた。壁画は秀骨清像であるという。
秀骨清像についてはこちら

北壁上部 高さ1.06m、幅1.38m
『永靖炳霊寺』、北壁には二仏並坐と過去七仏が描かれるという。
『炳霊寺』は、1980年に甘粛省博物館によって184窟の壁画は詳しく調査された。1982年に20㎡の壁画の修復が終了した。本図はその一部で法華経変を描いているという。
色とりどりの天蓋の下に涼州式偏袒右肩の着衣で結跏趺坐する釈迦如来と多宝如来。それぞれの外側に脇侍菩薩が立ち、長い天衣(披巾)がひらひらと垂れている。
結跏趺坐する如来は丸い肉髻で丸顔、二仏の脇侍菩薩は細長い顔で描かれる。
この天蓋は、法隆寺金堂の天蓋や、橘夫人厨子の天蓋にも繋がるものだろう。

法隆寺金堂の天蓋について『法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録』は、その下に小札形の中に円花文を配する2段の垂幕を配し、再下段には重圏文を数箇描いた逆二等辺三角形の垂幕を置きその間に細かい襞を折りなす幕が下縁に重圏文を描いた縁飾りを伴って作り出されるという。
炳霊寺石窟184窟北壁上部壁画 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

菩薩立像(上図左下隅) 北魏
披巾と一体化した天衣は輪っかの中で交差し、X字形を作って両腕へと上がり、両側にひらひらと垂下する。 
以前にX字状天衣や瓔珞についてまとめたことがあるが、時代が古いほど短い天衣や瓔珞となる。
炳霊寺石窟169窟にも西秦時代の壁画にX字状の天衣を着けた菩薩立像があった。
X字状天衣については関連項目に記事をあげています。
炳霊寺石窟184窟北壁上部壁画 西秦 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

東壁上部 北魏 高さ1.30m、幅1.65m
こちらにも二仏並坐像が描かれているし、一仏二菩薩像もある。
同書は、1981-82年の調査で、東壁には1m余りの壁画があらわれた。墨千仏のほか、墨書銘に釈迦多宝如来、薬王菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩などがあった。壁画の菩薩は秀骨清像、褒衣博帯、瀟洒な容姿は、北魏末期から西魏にかけての特徴を示すという。
結跏趺坐した如来の大衣は、両膝と中央の3つの丸みをもって表現されるが、右の如来だけは右足を出している。
光背は挙身光となり、先端が尖っている。日本では舟形光背と呼ばれるが、元は蓮弁を表したもの。
その尖った頂部にさまざまな天蓋が描かれている。二仏並坐図との違いは天蓋くらいのものなので、同時代に描かれたに違いない。
炳霊寺石窟184窟東壁上部壁画 北魏 『中国石窟 永靖炳霊寺』より


関連項目

参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟芸術 炳霊寺」 甘粛省炳霊寺文物保護研究所編 2015年 江蘇鳳凰美術出版社
「仏のきた道 中国の仏教文化を探る」 鎌田茂雄 1997年 PHP新書
「建築を表現する展図録」 2008年 奈良国立博物館
絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟 第169窟 西秦」 主編鄭炳林 2021年