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2012/12/18
敦煌莫高窟9 285窟に南朝の影響
285窟の伏斗式天井には様々な雲気文と赤い線が駆け巡っていて素晴らしかった。
しかしながら、今年は足場が組まれていたために、端の方からのぞき込むようにしてしか天井の壁画を見ることはできなかった。
そして、今まで疑問に思っていたことを敦煌研究院の王さんに質問した。
蓮華やいろんな小さな文様と、その間に描かれた赤い線は何ですか?
すべて雲気を表しています
花に見えるものなども宙に浮かんでいるのではなく、それも雲気の一種らしい。
『中国石窟敦煌莫高窟1』には、敦煌莫高窟の北朝期の特徴が記されている。そこでは285窟は西魏時代に開窟され、249窟などと共に第3期第2類に分類されている。
同書は、新題材と新しい表現形式が多い。新題材として、中原の伝統的芸術の影響の受容が始まった。痩骨清像という人物の顔、褒衣博帯という服制、頬を染める暈繝法という。
285窟に表されているような細身の人物像は「痩骨清像」となっているが、同書の他の文では「秀骨清像」になっている。
『中国の仏教美術』は、この天井および、西壁を除く北、東、南各壁は白地に、細面の天人や菩薩が、天衣を長くなびかせ描かれている。これは漢民族士大夫の美意識にかなった「秀骨清像」と評される様式であるという。
秀骨清像で良さそうだ。
ウィキペディアによると、北魏が分裂して成立した2つの魏のうち、函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国として東魏を定義している。私は西魏の都長安で流行していた新しい様式が西漸して、敦煌に伝わったものと思っていた。
西魏の仏像も細いが、東魏の仏像も細身である。
菩薩立像 石灰岩 東魏時代(534-550) 1996年清州市龍興寺遺跡出土 清州市博物館蔵
『中国・山東省の仏像展図録』は、単純な曲面で構成された体軀も、複雑な着衣や装飾品に隠されることなく、溌剌とした印象を醸し出している。下半身に着けた裳に刻まれた縦向きの平行な衣文が、少し突き出た腹部の柔らかさを伝えているのも、像の清廉な印象を強めており、裳裾に刻まれた品字形衣文も厳格な対称性を失っていないという。
しかし、秀骨清像は北魏後半にはすでに現れている。
釈迦多宝二仏併坐像 金銅 北魏、熙平3年(518) パリ、ギメ東洋美術館蔵
秀骨清像と呼ばれる細身の容姿、褒衣博帯に双領下垂式の大衣という漢族の衣装を着て、その裾を左腕にかける。着衣の裾はヒレ状と北魏後期様式の典型のような作品である。
ともかく、そのような北朝様式の影響を受けて、285窟の塑像及び壁画の仏像、供養者、飛天などはほとんどが細身に表されている。
ところが、細身の人物は南朝(420-589)ではもっと早くに現れている。それは1958年河南省鄧州市学荘村南朝墓より出土した画像磚で、5世紀後半の墓の甬道と墓室の壁面に嵌め込まれて墓内を飾っていたものであるという(『中国★美の十字路展図録』より)。
郭巨埋児画像磚 高19幅38厚6 河南博物院蔵
『中国★美の十字路展図録』は、郭巨埋児」の故事を主題としている。この故事によれば、郭巨が老母を養うために我が子を土中に埋めようと地面を掘っていると、黄金の詰まった釜が出現し、そこには「孝子郭巨に賜う」と記されていたという。この内容に従って、画面中央には黄金で満たされた釜が配され、その左に地面を掘る郭巨を、右に子を抱く妻を表し、それぞれに「金壱釜」「郭巨」「妻子」の傍題を添えているという。
顔が丸いので北魏後半や西魏の仏像に似ているとは思わなかったが、確かに体つきは細身だ。
北魏の孝文帝が中原の洛陽に遷都したのが493年のことなので、秀骨清像は南朝から中原へと伝わったといえるだろう。
また、右の女性の天衣が風に翻る描写は、285窟の天人の天衣によく似て先端が尖っている。このような天衣の表現も、南朝から北朝へと将来されたものだったのだ。
吹笙鳳鳴画像磚 高19幅38厚6 河南博物院蔵
同書は、「王子喬」の故事に基づいている。王子喬は周の人で、笙を吹くのを好み、鳳凰の鳴き声を得意とし、道士の浮丘公に従って嵩山に登って修行し仙人になったという。画面左には、樹下の岩に座って笙を吹く王子喬を、右には払子を持って立つ浮丘公を、中央には雲気に乗って降下してきた鳳凰を配し、右上方には遙か彼方に浮かぶ遠山が見える。
故事を扱ったこれら2点は、人物の衣裳、樹木、雲気、遠山などが流麗な表現で処理されており、いずれも優美で装飾的な六朝時代の絵画表現をよく物語っているという。
鳳凰の乗る長く尾を引く雲は、285窟には見られないものだが、鳳凰の前と、浮丘公の上にある4枚のカザグルマのようなもの、これはひょっとすると、285窟の様々な形をした雲気文へと繋がるものではないだろうか。
このような文様について言及されていないが、南朝期の四神の表された画像磚にもカザグルマ状の文様がある。
瑞禽神獣画像磚 1957年河南省鄧県出土 陶製 縦19-19.5横37.5-39厚6.5 南朝 中国国家博物館蔵
『世界四大文明 中国文明展図録』は、4種の神獣を描いた画像磚で、それぞれ細かな描写がされており、色彩が残っている珍しい例である。被葬者を守るために墓中に配置されたと考えられている。四方の守り神である白虎(西)・青龍(東)・朱雀(南)・玄武(北)の四神を墓中に配する例は南朝に多いが、この画像磚では青龍を馬に似た神獣の形で描いているという。
今年四神についていくつかまとめたが、この画像磚は見落としていた。四神5の北魏北斉時代のものよりも古く、四神8の東晋時代に次ぐものだった。
青龍
周囲に3つカザグルマ状の文様があり、青龍の足元には勢いを示すような数本の筋が表されている。青龍の「気」を表したものとも解釈できる。
玄武
亀の前後にカザグルマ状の文様が2つある。その上方には根、葉、花が付いた蓮が表されている。
甲羅には当然だが亀甲繋ぎ文がある。
鳳凰
カザグルマ状の文様はないが、鳳凰と比べるとかなり小さく飛ぶ鳥が描かれていて、それが十字のカザグルマ状文様になっていくことを想像させる。
周囲の文様帯には、蓮がデザイン化されたと思われる文様が細い線で表されている。
白虎
青龍と同様に、足元には「気」あるいは勢いを示す細い線。カザグルマ状の文様の他に、空に舞う蓮が表されている。
285窟では、壁面の説法図などの間にも雲気文がちりばめられている。
よく見ると先の青い四弁花文がある。そしてその上には渦巻く蓮華。ここには、南朝のカザグルマ状の文様から生まれた四弁花文が、天花と呼ばれる文様へと成長していく様子が表されているようだ。
更に上には、南朝の一つの根から出たと思われる蓮華の葉や花までもが描かれている。
まるで地上に咲いていた花が茎から切れて天花となったり、茎や葉とともに飛んだ蓮華が段々上昇していき、天空(天井)では、中国の神々や飛天などの素早い動きで生じた風にあおられて舞っている様子が描かれているのだろう。
秀骨清像的な細身の人物像、飛天のシャープな天衣だけでなく、天花や雲気文なども南朝から将来されたモティーフが元になっているのだった。
秀骨清像は、見てきたように北魏時代後半には将来されている。
西魏は535~556年なので、5世紀後半の南朝の画像磚の天衣や雲気文などが直接伝わったのではなく、北魏に伝播されて消化されたものが北朝様式となり、それが西魏にも受け継がれたのだろう。
これらは南朝将来の北朝様式なのだった。
関連項目
敦煌莫高窟8 285窟の天井を翔る雲気
敦煌莫高窟5 暈繝の変遷2
新羅石仏の気になる着衣を山東省に探す
二仏並坐像を探したら北魏時代のものがあった
騎馬時の服装は
四神
※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社
「中国の仏教美術 後漢時代から元時代まで」 久野美樹 1999年 東信堂 世界美術双書
「中国・山東省の仏像 飛鳥仏の面影展図録」 2007年 MIHO MUSEUM
「週刊朝日百科世界の美術92 南北朝時代」 1979年 朝日新聞社
「中国★美の十字路展図録」 曽布川寛・出川哲朗監修 2005年 大広