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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/09/17

炳霊寺石窟 他の窟にも西秦の仏像


1980年代の炳霊寺石窟
大仏への参道もまだ整備されておらず、桟道もない。NHKでシルクロードシリーズが放送されたのが1980年だったが、その時は舟で近づいたというか、1974年に完成した劉家峡ダムに舟が運航できるくらいの水量がなければ行き着けないところとなった。
炳霊寺大寺溝 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

大仏の上方の2つの穴は169窟と172窟。その高さのところで、南(向かって左方向)の方も人工的に削られているように見える。小さな窟は下の方に並んでいるが、何故この高さのところが気になるかというと、
炳霊寺の石窟群 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

『中国石窟芸術 炳霊寺』(以下『炳霊寺』)に、西秦時代につくられた1窟がかなり上の方に開鑿されているらしい図版(1960年代)があるからだ。
この顔は西秦時代のものではなさそうだけど・・・🤔
炳霊寺石窟1窟 一仏二菩薩像 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

西秦時代の如来は肩幅が広く、腰が締まった逆三角形なのにこの如来はずんぐりしている。涼州式偏袒右肩に大衣を着ているにしても、衣文線が変だし、両脇侍菩薩も西秦時代のものではない。
『炳霊寺』は、1960年代の写真。西秦、後に明代の重塑と両脇侍菩薩が造られたという。明代とはね。
炳霊寺石窟1窟一仏二菩薩像 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

如来立像 
同書は、像高4m、螺髻、額が広く、大きな目、薄い大衣を通して身体が透ける。大衣の端は明代に削られた。衣文線U字形で、インドのマトゥラー風である。
劉家峡ダム建設で水没してしまう場所にあった1967年では、石胎泥塑の像を別の場所に搬送する技術がなく、壁画と共に計測するに留まり、水没してしまったという。
崖の上方ではなく、水没するほど下の方にあったのだ。

如来が通肩に着た大衣にはほぼ左右対称にU字というよりはV字状に衣文線(2本で一つの襞を表す)が刻まれているが、脚部にいくほどまばらにまた浅くなっていること。大衣は薄く体に密着して脚部や膝頭などもはっきりと分かるような造像であることが確認できた。
これは169窟北壁7龕の如来立像と同じで、一つは衣が体に密着し、服を通して全身の体の線や、肩から肘にかけてのたくましい肉付けが見て取れる点である。さらに左右2本の腕から下がる衣端の細かいひるがえりの表現も、炳霊寺像とマトゥラー像の共通する特徴である。
5世紀前半のインド・マトゥラー彫刻のもつ特徴を、同じ5世紀前半に造られたと考えられる中国、炳霊寺の像が備えていることは、文化伝播の速さという点で大変注目に値する(『中国の仏教美術』より)という。

西秦時代の像容だけでなく、如来の両腕の外側に脇侍菩薩が描かれていたらしいことも、この写真で知ることができた。
炳霊寺石窟1窟一仏二菩薩像 西秦 『中国石窟芸術 炳霊寺』より

西秦時代の如来には、丸く小さな肉髻にだけ螺髻があり、髪は渦巻状の線刻だったこと、真っ直ぐな鼻筋から長い弓なりの眉が伸びていること、大きな白毫があったこと、口角が少し上がって、切れ長の目と共に笑みを浮かべた明るい表情である。
しかしながら、この顔貌だけは7龕の如来と全然異なる。西秦時代の他の如来を探しても、似ているものない、独特の顔である。
炳霊寺の石窟群 『中国石窟芸術 炳霊寺』より


172窟桟道崖 西秦-北周
大小の如来や菩薩の塑像が残っている。大きな四角い穴は楼閣を懸けるためのもの。小さな四角い穴は塑像を崖面に貼り付けるためのもの。一つだけ大きな丸い穴がある。
中央には天蓋の垂飾や光背が描かれた痕跡があるので、小さな穴から推測して、大きな如来坐像の塑像がつくられていたのだろう。
炳霊寺石窟172窟桟道崖 西秦-北周 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

南崖体の仏像群 1-5
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

1・2 二仏立像
如来か菩薩かが見分けるのが困難なほどに風化が進んでいる。向かって右の如来はやや左に重心をおいて立つ。
彩色の跡が少しでも残っている。
霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

3 菩薩立像
『第169窟』は一仏二菩薩像の中尊とみていて、私も最初は満面の笑みを浮かべた如来と思っていたが、8のように上半身は裸で、裙を履いた菩薩とみた。左手のあげ方が8と左右対称になっており、如来らしくない。

4 脇侍菩薩像
披巾は両肩を覆い、斜めに垂下して腹前で短くX字状に交差して腕にかかり、外側に垂れる。
左手は水瓶を提げ、右手はこれまでみてきた菩薩と同じように蓮茎を掲げていただろう。

5 如来立像
『第169窟』は一仏二菩薩像の脇侍とみているようだが、偏袒右肩に大衣を着た如来立像である。
169窟北壁の如来立像よりも肩が張っていて、脚も太い様子が薄い着衣からもはっきりと分かる、力強い像である。左側の大きな菩薩立像と同じ腕の挙げ方なので、大きな菩薩立像の脚部はこの如来立像と似たものだったと推測する。 
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

北崖体 6-9
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

6 如来立像
通肩に大衣を着て左手をあげて衣端を握り、右手は垂下する。着衣の裾は長く、内着の僧祇支は足首が隠れるほど。

7 如来立像
おそらく1像と大差ない造形であったと思われる。崖面に貼り付けられた塑像のだめ、頭部から上半身までの背骨のような木材が塑土や藁などから露出している。
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

8 菩薩大像 西秦(385-431)
同書は、花冠をかぶり、長い眉細い目、高い鼻小さな口で微笑む。上半身は裸で、長裙を履き、首から垂らした飄帯を肘の下で後ろに回す。挙げた右手には持物があり、左手は下ろす。頭光と光背が描かれ、千仏図が右側に残るという。

9 如来立像 北周(556-581)
『絲綢之路石窟芸術双書 炳霊寺石窟第169窟 西秦』(以下『第169窟』)は、平らな肉髻で顔は方円形、長い眉細い、鼻筋が通り、薄い唇はやや上がる。
内着は僧祇支で、外に双領下垂式に大衣を着て衣文に塑土を貼り付ける。着衣の襞は厚い。菩薩立像と同じ時期に造られたものではないという。
ずんぐりした体型、低い肉髻で北周時代の造立だろう。
2体の仏像の下、そして菩薩の右側に千仏図が描かれている。
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より

10 如来坐像の光背と天蓋
頭光と身光の重圏文に気がついてここにも仏像があったことが分かった。身光には化仏が描かれていたようだ。等間隔の縦線が並んでいることから天蓋も描かれていたことも。
そして重圏文の内側の8個の四角い穴は塑造の如来坐像を造るための木を差し込むためのものだったことも。ほぼ中央部にあるので、西秦時代に造られたのだろう。
炳霊寺石窟172窟桟道崖仏像群 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より


172窟 西秦-北周 不規則な天然窟 高さ約10.00m、幅7.00m、奥行20.00m
北魏前期の一仏二菩薩像の外側にある独尊の如来坐像
炳霊寺石窟172窟北壁-西秦~北周 『中国石窟 永靖炳霊寺』より

如来坐像 石胎泥塑 高さ0.9m 
『第169窟』は、丸い肉髻で7ふくよかな顔、眉は細長く、目は閉じ、真っ直ぐな鼻で唇は硬く閉じている。
大衣を通肩に着て禅定印を結び、結跏趺坐する。着衣の衣文はU字形を呈しているという。
南壁下層の結跏趺坐する如来の、両袖口から足元へと続く帯状のものや、前に垂下する裳裾、そして丸く盛り上がる膝などの形式と共通する。
この大衣を通肩に着て結跏趺坐する如来坐像のU字形の衣文は、北魏後期、正光2年(521)銘の小金銅仏にも見られるが、これほどの膝の盛り上がりはみられないので、本像は西秦時代の作であるのは確か。
炳霊寺石窟172窟 西秦-北周 『炳霊寺石窟第169窟 西秦』より


現地での見学と、炳霊寺石窟に関する3冊の書物の図版のおかげで、僅かしか残っていない西秦時代(385-431)の貴重な仏像仏画を堪能することができた。



関連項目
参考文献
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟芸術 炳霊寺」 甘粛省炳霊寺文物保護研究所編 2015年 江蘇鳳凰美術出版社
「中国の仏教美術」 久野美樹 1999年 世界美術双書006 東信堂