多宝如来がいたのは、多宝如来自らが地中から涌出させた宝塔だった(『仏教美術用語集』より)が、仏国寺の多宝塔の外観の特異性がまだひっかかっていた頃、奈良国立博物館に『国宝法隆寺金堂展』を見に行った。
法隆寺金堂の国宝の数々を見に来て、それが東新館で終わってしまい、ほな西新館は何があるんやろと入ったら法隆寺金堂とは何の関係もないものがずらずらと並んでいた。それは『建築を表現する 弥生時代から平安時代 展』という面白い特別陳列で、うれしいことに図録もあった。
そして、その中の「銅板法華説相図」には驚いた。仏国寺の釈迦塔と多宝塔を見て以来気になっていた二仏並坐に関するものだったからだ。
銅板法華説相図 飛鳥時代(白鳳期)~奈良時代(7~8世紀) 奈良、長谷寺蔵
『建築を表現する展図録』は、『法華経』見宝塔品には、霊鷲山で『法華経』を説く釈迦と大衆の前に、1基の大宝塔が地中から涌出する場面が記される。涌出し、空中に浮いた宝塔の中には多宝如来の舎利が納められており、中から多宝如来が釈迦の説法が真実であることを大音声で宣言した。その後、宝塔内に入った釈迦は十万世界から集まった諸仏や菩薩とともに多宝仏の分身を拝し、さらに、釈迦如来は多宝如来に座を与えられ並んで結跏趺坐し、ともに法華経を説いた ・・略・・
盤面中央に大きく陽鋳されるのが、地中から涌き出したその宝塔で、三重塔として表されている。最上層の屋根四隅には九輪がしつらわれ、うち3本が並立するように表現されている。各層の屋根には風鐸や雲形の棟端飾が、二重基壇の下には蓮華座があしらわれている。これらの表現は、もちろん実際の塔をリアルに写したものではなく、三柱九輪塔と呼ばれる想像上の宝塔のスタイルを採ったものである。三柱九輪塔は法隆寺多聞天の持物や救世観音の光背にも見ることができ、この時期に特有の塔表現である。
また、塔の最上層に設けられた円形窓から内部に舎利容器と考えられる鋺(まり)形容器が安置されている様子が窺える。
本図の最下段には銘文があり、その解釈の違いから制作期に関して7世紀とする説、8世紀とする説などあっていまも議論が続いている。が、さらに注目すべきものに『甚希有経』から引用された造塔の功徳に関する文句がある。内容は、如来のためにどんなに小さいものでも塔を造り供養することは功徳の大きい行為であることを述べたもので、『法華経』で説かれる造塔供養の功徳と併せ、仏塔の造形化に力を注がれる思想的背景を示しており、興味深いという。 救世観音立像頭光の宝塔 飛鳥時代 法隆寺夢殿
救世観音の光背頂部には塔のようなものがあるのは知っていたが、三柱九輪塔を表したものだというのは知らなかった。二仏並坐像は表されていないが、相輪が3本あるので間違いないだろう。それにしても観音像の光背に釈迦如来と多宝如来が並坐する塔が表されているとは。 多聞天像 四天王像うち クスノキ彩色・截金 134.3㎝ 飛鳥時代(7世紀) 法隆寺金堂
『法隆寺金堂国宝展図録』は、法隆寺金堂の須弥壇上四隅に安置されている四天王像。 ・・略・・ 多聞天は右奧に右方(東)に向いて立つという。右手にかかげる宝塔についての記述はない。
四天王像をじっくり見て『建築を表現する展』へと進んでいったので、銅板法華説相図の解説でやっとこれが三柱九輪塔と呼ばれるものだということがわかったのだった。まさかこれが仏国寺の多宝塔につながるものだとは知らずに、多聞天像の右手に妙なものを持っているなあと思っていた。三柱九輪塔だとわかって見直そうにも、再入場はできない。
三柱というのは、平面的には3本で表されているのを見た後世の人がつけたのだろうが、多聞天の持つ宝塔には5本の相輪があり、しかも九輪ではなく四輪になっている。
そして天和6年銘四面像の塔同様に持ち送りが顕著に表現されている。
多宝塔磚仏 飛鳥・白鳳時代(6世紀後半~710) 所在・所蔵不明
最上階には舎利容器ではなく仏坐像だが、初層には二仏並坐像が表されているので、これも三柱九輪塔を表したものだろう。 8世紀前半、薬師寺には東塔と西塔が建立された。東大寺にも創建当時には東塔と西塔が造立され、しかも七重塔だったという。当麻寺に現存するのも東塔と西塔で東塔は天平時代の造立、西塔が完成したのは平安初期であるらしい。
このように寺院に東塔と西塔と呼ばれるように、2基の塔を東西に配置することが韓国だけでなく日本でも流行したのは、塔を造り供養することは功徳の大きい行為とされたことに関係があるのかも。
※参考文献
「国宝法隆寺金堂展図録」(2008年 朝日新聞社)
「建築を表現する展図録」(2008年 奈良国立博物館)
「日本の美術455 飛鳥・白鳳の仏像」(2004年 至文堂)
「日本の美術21 飛鳥・白鳳彫刻」(1968年 至文堂)
「仏教美術用語集」(中野玄三編著 1983年 淡交社)