北魏時代に流行した二仏並坐像が、どのように統一新羅の仏国寺の釈迦塔・多宝塔や金銅仏に繋がるのだろうか。
二仏並坐像(五層四面塔最下層の1面) 1976年甘粛省荘浪県水洛城徐家碾出土 北魏時代(6世紀前半) 荘浪県博物館蔵
仏伝から二仏並坐までさまざまな図像が20面に浮彫されている。『中国国宝展図録』は、角ばった顔の表現などは、必ずしも洗練された造形とは言いがたいが、逆に地域性や当時の民間の造像のありようを示すものといえるという。二仏並坐が地方にまでいきわたっていたんだなあ。

『中国の石仏 荘厳なる祈り展図録』は、尖拱龕を線刻し、なかに二仏並坐像を浅く線刻するという。左は偏袒右肩なので、『週刊朝日百科』のいう、右肩を肌脱ぐ着衣法は長上に対するものであるから釈迦如来、右が多宝如来だろう。

単層の仏塔に四面に龕をうがち、それぞれ仏が配されたものの1つに二仏並坐像がある。並んでいるというよりは、向かい合っている。右の如来は双領下垂式の服装で、右手を上げて過去仏多宝如来を紹介している釈迦如来だろう(『週刊朝日百科』より)。
この仏塔は元々そうだったのか、傷んでいるのかよくわからないが、頂部は平たく、相輪はない。しかし、仏龕の上下に持ち送りがあるのが、慶州、あるいは統一新羅であったところで持ち送りのある三層石塔を数多く見てきた私には興味が引かれるところだ。

『中国の石仏 荘厳なる祈り展図録』 は、須弥座に一尊は拱手、一尊は右手に持物をとり、左手を膝上に伏せる二仏並坐像を表す。脇に両手で腹前に珠状の持物を捧げる比丘立像が立ち、須弥座正面には香炉と阿吽の獅子を大きく表す。上を仰ぎ見る相貌、外方を向いて立つ脇侍比丘が大らかな雰囲気を伝えるという。どちらの如来も同じような服装で、左如来が右に持物をかかげるということだが、どちらが釈迦なのかわからない。

『中国国宝展図録』は、丈の高い二重の四脚座が備わり、菩薩や供養者などが脇を取り囲んだたいへん珍しい形式の遺例である。下段の台座背面に刻出された銘文により、釈迦と多宝の二仏を主尊として制作された。
各所に見られる仕上げの荒さは、隋の小金銅仏にしばしば見られるもので、多大な需要に応じるために手早く大量に制作しようとした一種の便法が、こうした品質のあり方に反映されているのかもしれないという。同じ姿勢・服装の如来なので、釈迦はどちらかわからない。

小さな龕に2如来が座っている。右の如来が左の如来の方に右手をのばしているので、釈迦だろう。

※参考文献
「山口コレクション中国石仏展図録」(1979年 大阪市立美術館)
「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」(1995年 大阪市立美術館)
「中国国宝展図録」(2004年 朝日新聞社)
「週刊朝日百科世界の美術92 南北朝時代」(1979年 朝日新聞社)