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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/03/10

日本の瓦7 複弁蓮華文、そして連珠文




複弁蓮華文の瓦も白鳳時代に出現している。

川原寺の軒丸瓦・軒平瓦 白鳳時代 複弁蓮華文・覗花弁・面違鋸歯文、四重弧文 奈良文化財研究所蔵
『日本の美術66古代の瓦』(以下『古代の瓦』)は、百済末期様式の瓦が主として中小寺院や、地方寺院の開発にあてられていたころ、中央の大寺の造営には新様式が採用された。奈良・川原寺は天智天皇の勅願によって建立されたことが推定されるが、天武天皇との関係はことに深く、藤原京時代には四大寺の一つであった。創建時代の鐙瓦は蓮花文を飾るとはいえ、今までに例のない、1枚の花弁に子葉2個を配する複弁蓮花文である。この新様式の蓮花文は中房が大きく、蓮子は大粒で、写実的な乳房状にあらわし、花弁は中央に稜をたてて二面分割とし、左右の各面に断面の丸い子葉を配した、反転の強い彫りの深い複弁蓮花文であり、周縁は幅広く高く、上面を内斜面に作り、面違鋸歯文を飾っているという。
同じ白鳳時代、山村廃寺の単弁蓮華文軒丸瓦には、スタンプと思われる隆線で鋸歯文が周縁を巡っているが、こちらはもう少し凝って、布を折りたたんだかのような厚みのある鋸歯文となっている。それを面違鋸歯文と呼ぶらしいが、そんな凝った鋸歯文は白鳳時代にのみ見られるものだ。

法隆寺西院の軒丸瓦・軒平瓦1 白鳳時代 複弁蓮華文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 軒丸瓦径19.0軒平瓦幅30.1厚6.3㎝ 西院伽藍金堂所用 法隆寺蔵
『法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録』(以下『法隆寺展図録』)は、軒丸瓦は中房は大きく高く、中央の1個の蓮子を中心に、さらに蓮子を二重に巡らし、内区には弁端が反転する複弁の蓮弁を八葉飾り、外区には突線で表した鋸歯文を巡らしている。軒平瓦は斑鳩宮所用の軒平瓦の文様を継承し、さらに簡潔にまとめあげた形式で、特徴のある宝珠形の中心飾の左右に三葉形のパルメット文をのびやかに3回転連続させて、唐草文状に展開させているという。
弁端が反転しているものの、平板な花弁となっている。 
法隆寺西院伽藍の軒丸瓦・軒平瓦 白鳳時代 複弁蓮華文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 軒丸瓦径18.1軒平瓦幅31.0厚5.5㎝ 西院伽藍塔所用 法隆寺蔵
同書は、西院伽藍出土の軒瓦で、文様の形式化からみて金堂所用瓦が最も古く、塔所用瓦がこれに継ぎ、さらに回廊や中門などの出土瓦が続く。これらの瓦は天武朝の金堂造営から和銅年間の中門造営まで、すなわち白鳳期(7世紀後葉から8世紀初頭)の西院伽藍の造立過程を物語っているという。
花弁に立体感がある。

『古代の瓦』は、こうした複弁蓮花文は一統時代新羅に盛行する。しかし新羅様式は川原寺式とは形式を異にするので、初唐様式をそれぞれ受け入れ消化したものと想定されている。複弁蓮花文は中国では既に北魏に出現するが、花弁の端は尖形を呈している。川原寺式や新羅瓦のごとく、弁端が丸く、切れ込みのある形は唐の太宗陵や長安大明宮址の瓦塼にみられるが、その初現の時期は南北朝末から初唐にかけての瓦が不明であるために、時期的にみて初唐様式と想定されているのであるという。


太宗陵の軒丸瓦 初唐期(7世紀) 複弁八葉蓮華文・連珠文 西安北方、昭陵出土
同書は、ただし唐の鐙瓦は蓮花文のまわりに連珠文をめぐらし、周縁は広く無文に作るのが普通であり、しかも粗雑で創造的意欲に欠けるものが多いが、川原寺の鐙瓦文様の精巧さは、むしろ仏像の台座や光背の蓮花文をおもわすものがあり、それらを刻んだ仏師が鐙瓦の造笵にもあたったことが考えられる。中国では当時の最高の宮殿や皇陵の瓦さえ、総て造瓦工の手にゆだねられる段階へ進んでいるのに、後進的なわが国や新羅では芸術作家が活躍する分野の一つであったという。
花弁は子葉が高いので、花弁が非常に立体的な印象を受ける。また花弁と花弁の間に見える下側の花弁、つまり覗花弁は、造瓦工の作ったものといわれるが、日本のものよりも花弁らしく表されている。
日本の初期複弁蓮花文軒丸瓦には、周縁に鋸歯文が巡るが連珠文はない。ということは、唐の太宗期以前には鋸歯文の巡る軒丸瓦があったはずだが、残念なことに遺品が残っていない。あるいはまだ発見されていない。

大官大寺の軒丸瓦・軒平瓦 白鳳時代 複弁八葉蓮華文・連珠文、均整忍冬唐草文・連珠文・鋸歯文 奈良文化財研究所蔵
同書は、初唐様式の影響といえば、長安大明宮址や太宗陵出土の鐙瓦に最もよく似ているのが、奈良・代官大寺址出土の鐙瓦であるという。
軒丸瓦は、周縁は幅が狭く、その側面に連珠出土が並んでいるので、下側のものはほとんど見えず、上側のものは大粒に感じる。
軒平瓦は、法隆寺出土の均整忍冬唐草文軒平瓦にあった宝珠形の中心飾りはなくなり、垂飾のようなものとなっている。蔓草も法隆寺系のものとは全く異なった、便化したものとなり、よく見ると、1単位ずつ途切れている。連珠はソロバン玉のような形をしている。

藤原宮の軒丸瓦・軒平瓦 白鳳時代、持統8年(694)に遷都 複弁蓮華文・連珠文、偏行忍冬唐草文・連珠文・鋸歯文 
『古代の瓦』は、外区に連珠文を飾る複弁八葉蓮花文鐙瓦の確実な時代を推し得る遺例は、持統・文武・元明の3代、16年間にわたる皇都、藤原宮使用瓦である。『扶桑略記』は本来寺に用いられた瓦葺きが宮殿にも用いられた最初であると伝えるが、なかでも朝堂院出土の一組は最もすぐれ、創建瓦としてふさわしいものである。鐙瓦は複弁蓮花文のまわりに連珠文と外向鋸歯文を二重に飾り、宇瓦は雲文系の偏行唐草文を内区主文とし、外区には、上帯に連珠文、側帯と下帯には線鋸歯文を飾っているという。
軒丸瓦は、大官大寺の軒瓦の連珠文と、それ以前の川原寺の軒丸瓦の鋸歯文の双方が表されている。弁端は角ばって花弁らしくない。
軒平瓦は、大官大寺の唐草文が左右対称をやめて偏行となったようで、主茎が1本の茎となり、波のような渦が2つずつ上下に表されている。

本薬師寺の軒丸瓦・軒平瓦 白鳳時代、文武2年(698)に完成 複弁蓮華文・連珠文・鋸歯文、偏行唐草文・連珠文・鋸歯文 本薬師寺址出土 軒平瓦は東京国立博物館蔵

同書は、薬師寺は天武9年(681)に皇后の病気平癒を祈って発願された官寺であるが、持統11年には本薬師寺像とみられる仏像の開眼が行われているから、瓦文様が藤原宮のそれより多少古式なのもうなずかれることであるという。
軒丸瓦は外区と内区の高さにあまり差がなく平板。周縁には鋸歯文がかすかに認められ、連珠は大きく出っ張っている。
弁端が角ばってきたような。
軒平瓦は、藤原宮のものよりも蔓の巻きが大きくなっている。

平城宮の軒丸瓦・軒平瓦 奈良時代、和銅3年(710) 複弁蓮花文・連珠文・鋸歯文、均整忍冬唐草文・連珠文 奈良文化財研究所蔵
『古代の瓦』は、奈良朝初期の瓦は、和銅3年平城遷都とともに出現する。皇都の遷移は短期間に莫大な建築資材を必要とするから、その内実は瓦も藤原京から多く転用されていた。
一方、平城宮においても、北部の丘陵地帯に官窯を築いて新造瓦の製産がはじまっている。その初期の製品とおぼしき一組を見るに、鐙瓦は複弁蓮花文を主文とし、外区に連珠文を、周縁の内斜面に線鋸歯文を飾っている。その文様構成は藤原宮式を範としたとはいえ、中房は小さく低い形に造り、花弁はいっそう柔和であり、周縁の内斜面は匙面にとるのが特色である。
宇瓦は均正唐草文を主文とし外区に連珠文を飾るが、その文様構成は大官大寺式を受け継ぎ、彼の雲気文的な鋭利さから脱した温雅な形へと変化せしめている。
それはまさに藤原宮・大官大寺式を取捨選択し、その強さ、鋭利さから脱した優美・温雅な和風形式の成立とみるべきであろうという。 
軒平瓦には、また均整忍冬唐草文が現れた。大官大寺風の中心飾りも似ている。

こうした和様形式は平城遷都に伴って移建された興福寺・元興寺・大安寺などの大寺においてもみられることである。

興福寺の軒丸瓦・軒平瓦 奈良時代 複弁蓮花文・連珠文・鋸歯文、均整忍冬唐草文・連珠文 奈良国立博物館蔵
同書は、鐙瓦は中房も大きく藤原宮式に最も近いが、柔らかさにおいては平城宮式に劣るものではないし、宇瓦の文様は、その外区において大官大寺式のそれを襲い、内区主文様は、彼の上下を逆にし、いっそう簡略化した形といえようという。
軒平瓦は連珠文もひしゃがっている。

さて、やっと元興寺の軒瓦が登場する頃となった。

元興寺の軒丸瓦・軒平瓦 奈良時代 複弁蓮華文、均整忍冬唐草文・鋸歯文 元興寺蔵
『わかる!元興寺』は、平安時代初期に編纂された『続日本紀』には養老2年(718)に飛鳥の地にあった法興寺を平城京に遷したという記録が見られるという。
下の軒瓦の拓本は、奈良移建期のもの。
同書は、飛鳥寺の後身、元興寺の鐙瓦は粟原寺のそれに似た川原寺式系の末流であり、宇瓦は大官大寺式を模刻したもので新鮮味にとぼしいという。
粟原寺(奈良)の複弁蓮華文軒丸瓦(白鳳時代)にも、連珠文も鋸歯文もない。連珠文だけを表す軒丸瓦の流れというのがあったようだ。

そして東大寺が建立される。

東大寺の軒丸瓦・軒平瓦 奈良時代、大仏開眼会が天平勝宝4年(752)、大伽藍の完成は天平宝亀初年(770) 奈良国立博物館蔵
『古代の瓦』は、東大寺で最も多く用いられた鐙瓦は、興福寺式の文様を更に簡潔に、しかも大ぶりにあらわしたもので、周縁の鋸歯文を省き、外区の珠文帯や中房の蓮子は大粒で数は少ない。宇瓦は均正唐草文ながら、中心飾は三葉を芯とする、対葉形宝相華文を採用したのが特色であるという。
連珠文は続いて採用されるが、鋸歯文は廃れてしまったということだろうか。複弁の蓮華よりも連珠文や中房の蓮子が目立つ。
軒平瓦の均整忍冬唐草文は装飾的に表されている。
同書は、こうした宝相華文様はパルメットを、いわば換骨奪胎して造り上げられたものであるが、中国の則天武后時代に出現し、わが国へは天平18年(746)造立の東大寺法華堂、不空羂索観音像の装飾文様として採用された新来文様であったという。
蓮華文の軒丸瓦を調べていると、当然ながら忍冬唐草文の軒平瓦のこともわかってきて、その上宝相華文の起源まで知ることができた。

        日本の瓦6 単弁蓮華文

関連項目
雲崗石窟の忍冬唐草文
日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦
日本の瓦2 法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦
日本の瓦3 パルメット文のある瓦
日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦
日本の瓦5 点珠のない素弁蓮華文
元興寺2 瓦
蓮華座2 法隆寺献納金銅仏
蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子


※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館