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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/06/20

身体にそった着衣はインドから?


清州市龍興寺址出土の仏立像(北斉時代、550-577)といい、慶州市甘山寺伝来の阿弥陀如来立像(統一新羅、720年頃)といい、インドからの直接的な影響という可能性があるという。 インドから将来されたという薄い着衣で思い浮かべるのは、炳霊寺石窟の仏立像である。

12 仏立像 炳霊寺石窟第169窟北壁第7号 五胡十六国・西秦(5世紀前半) 
『中国の仏教美術』は、甘粛省蘭州の郊外、西秦の都のあった永靖郊外に炳霊寺石窟はある。興味深いことは、5世紀前半のインド・グプタ期のマトゥラー彫刻にみられる特徴をいくつか備えている点である。まず第一に、マトゥラー仏立像の多くは等身大あるいは2m前後の大像であるが、炳霊寺7号立像もまた2.45mにおよぶ大像である。中国に現存する像の中で、「仏の像」をこれほど大きく表現した例は、この炳霊寺像が初めてである。
また炳霊寺仏立像7号立像は、マトゥラー仏立像と共通点がある。一つは衣が体に密着し、服を通して全身の体の線や、肩から肘にかけてのたくましい肉付けが見て取れる点である。さらに左右2本の腕から下がる衣端の細かいひるがえりの表現も、炳霊寺像とマトゥラー像の共通する特徴である。
5世紀前半のインド・マトゥラー彫刻のもつ特徴を、同じ5世紀前半に造られたと考えられる特徴を炳霊寺の像が備えていることは、文化伝播の速さという点で大変注目に値する
という。私もこの本を読んでずっと頭の片隅に残ってはいた。
仏立像 マトゥラー・ジャマールプル出土 グプタ朝(5世紀) マトゥラー博物館蔵
『インド・マトゥラー彫刻展図録(以下『マトゥラー展図録』)は、腰布の上から薄手の大衣を通肩にまとい、右足に体重をかけわずかに体をひねっている。薄い衣を通して、均整のとれた充実した肉体が感じられる。大衣には隆起した衣文線が平行して表現されている。両手から体前に垂れ下がるU字型の大衣の端は細かい襞をたたんでいるという。確かに12の仏立像とよく似ている。
しかし、マトゥラー仏はそれ以前から薄い着衣をまとっていたのではなかったか。

14 仏立像 砂岩 クシャーン朝(2世紀) マトゥラー博物館蔵
クシャーン朝のマトゥラーとガンダーラの間には盛んな交流があり、相互に影響が及んでいたことが、仏像のスタイルにも現れている。本像は、両肩をおおう通肩の大衣をまとい、右手施無畏印、左手は肩の高さにあげて衣の端を持ち、  ・・略・・  大衣はやや厚手という。肩のあたりと衣端は確かに分厚いなあ。 
15 仏坐像 赤色砂岩 マトゥラー 1-2世紀 クリーヴランド美術館蔵
『ブッダ展-大いなる旅路展図録(以後ブッダ展)』は、中インドのマトゥラーは、西北インド(パキスタン)のガンダーラと並んで最初に仏像を制作したことでせ名高い。偏袒右肩(右肩をあらわす着衣法)に纏った大衣は薄く、肉身が透けて見えるように表し、わずかに左肩に平行線状の襞を加えるという。 左腕にかかった衣は体の極端に厚手だが、上半身に着た大衣はかなり薄い。 16 仏上半身像 砂岩 マトゥラー出土 3世紀 マトゥラー博物館蔵
『マトゥラー展図録』は、厚手の衣を通肩にまとい、右手は施無畏印を結び、左手は失われるがおそらく肩の前で衣の端をつかんでいるはずであるという。この像は顔立ちもマトゥラー仏らしくないが、通肩の着衣に至っては、鎧のようだ。頭部も妙である。ガンダーラ仏を見ながら真似したらこのようになってしまったのだろうか。このように、マトゥラーでの伝統的な偏袒右肩という着衣は薄く、外来の通肩は厚い傾向がうかがえる。おそらく、暑いマトゥラーの服装は身体が透けるくらい薄手で、見慣れたものだったので、それを像として表すことはできたのだろうが、仏像の着衣としてガンダーラから将来された通肩の服装を表現することに馴れていなかったのではないだろうか。

17 仏坐像 赤色砂岩 4世紀 マトゥラー クリーブランド美術館蔵   
『ブッダ展図録』は、マトゥラーはクシャーン朝(1世紀中頃-3世紀中頃)に引き続いて、グプタ朝(4世紀中頃-6世紀中頃)においても仏像制作の中心地であった。この像にはクシャーン朝からグプタ朝への過渡期的な造形様式の特徴が見られ、ポスト・クシャーン朝、あるいはむしろ初期グプタ朝の時代の作品とみられる。ポスト・クシャーン朝(3世紀中頃-4世紀中頃)のマトゥラー仏は、ガンダーラの影響を受けて大衣を通肩に纏い、規則的な平行線状の衣文線と、枠組みに支配されたような固い肉体表現に特徴があるが、この像は衣を通しての豊かな量感が目立っており、グプタ様式に近いという。
このように見ていくと、通肩の着衣の仏像が透けるように薄く、衣端の細かい翻りという、5世紀前半に涼州に伝わったのは、やはり同じ頃のグプタ朝マトゥラー仏の様式だったことが理解できた。
しかし、5世紀前半に涼州(河西回廊)という辺境の地に伝わった様式が、6世紀後半の中国の東の端、山東省へと伝播していったのだろうか?そしてそれが8世紀前半の統一新羅へと伝わったのだろうか。それとも直接インドから伝わったのだろうか?

※参考文献
「中国の仏教美術」(久野美樹 1999年 世界美術双書006 東信堂)
「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」(2000年 小学館)
「インド・マトゥラー彫刻展図録」(2002年 NHK)
「ブッダ展-大いなる旅路展図録」(1998年 NHK)