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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/06/18

新羅石仏の気になる着衣を山東省に探す

掘仏寺址の四面石仏の南面二立像の菩薩と、国立慶州博物館野外展示の菩薩立像で気になったもう1つの点は、新羅仏らしくない着衣だった。 装飾的な着衣で思い出すのは、山東省の菩薩像である。装飾的な着衣は隋時代の特徴だと思っていたが、それが北斉から始まることがわかった。

6 菩薩立像 石灰岩 北斉~隋時代(6世紀後半) 1988年、山東省諸城市南郊出土  諸城市博物館蔵 
『中国国宝展図録』は、北斉(550~577)の滅亡後、北周(577~581)によって華北に廃仏の嵐が吹き荒れた際に、埋納されたのではないかと推測されている。
衣や装飾物が身にかかりあるいは交差するさまを背面まで巧みに表現するとともに、引き締まり、かつ伸びやかな体軀を手際よく形作っている。すらりと均整のとれたしなやかな肢体を見事に表現した秀作
という。それならば、隋まで時代を下げなくても良いのではないだろうか。
このように北斉ですでに十分に装飾的だが、穏やかな顔と動きのない身体という北斉のもう1つの面も現れている。7 菩薩立像 石灰岩 北斉時代 安丘市紅沙河鎮吴 安丘市博物館蔵 
同じ時代の山東省でも、地域によって特徴がある。
『中国山東省の仏像展図録』は、柔らかで現実味を増した成人の成人の容貌をもち、自由な方向にうねる葉をもつ、清楚な素弁の蓮華上に、腰をひねるようにして立っている という。そして、装飾品の多さだけでなく、冠を留める帯にも三つの円形の飾りが付けられており、これを結ぶ帯の緒は、耳の上で一度翻って、両肘に懸かって天衣に沿うように垂れているというように、凝りに凝った装飾で荘厳している。このように、北斉時代の後半になると、西方の様式はさらに中国化され、西方風に由来する颯爽とした体軀に、中国風の華やかな装飾性を加味した像が生み出されたという。北斉前半の仏像はどんなだっただろうか。

8  仏立像 石灰岩 北斉時代 1996年清州市龍興寺遺跡出土 清州市博物館蔵
低い肉髻、丸い顔、肉体の起伏を鮮やかに伝えている薄い衣、ゆったりとU字状に刻まれた衣文の表現など、造形的特徴はすべてがインドの様式に淵源する北斉様式の特質を備えているという。 と、西方というのがインドの様式であることを示唆している。北斉様式の仏像は、北魏後期様式以来の分厚い衣を捨て、薄い衣の下に柔らかな肉体を感じさせ、菩薩像も装飾性を排除し、天衣を両肩からまっすぐ体側に沿って垂下させて、その豊かな体軀を露わにています。これはインドの様式に由来する特色で、このような様式が中国へ伝来した経路については様々な説があります。
山東省では遅くても東魏の後半、540年代には、このような様式に基づく像が現れたことが確かめられ
るという。

9 菩薩立像 石灰岩 東魏時代(534-550) 1996年清州市龍興寺遺跡出土 清州市博物館蔵
単純な曲面で構成された体軀も、複雑な着衣や装飾品に隠されることなく、溌剌とした印象を醸し出している。下半身に着けた裳に刻まれた縦向きの平行な衣文が、少し突き出た腹部の柔らかさを伝えているのも、像の清廉な印象を強めており、裳裾に刻まれた品字形衣文も厳格な対称性を失っていないということで、ここにはインドの様式という言葉はない。  10 菩薩立像 石灰岩 北魏-東魏時代(6世紀前半) 1996年清州市龍興寺遺跡出土 清州市博物館蔵
上半身には中央に涙形の飾りのある板状胸飾りを付けるのみで裸とし、下半身に裳を着け、これを結ぶ帯の緒は両脚に沿って膝下まで垂れている。裳の上端中央にはクシャクシャとした折り返しが見える。天衣は両肩から背面の腰上までを覆い、前面では膝辺りでX字状に交差してから両手前膊に懸かって、外側で垂下している。右手には下と左右に飾りの付いた環状持物を持って、蓮華上に立っているという。上半身は何も着けていないとはいえ、分厚い着衣を着ているような印象を受ける像である。 11 如来三尊立像 石灰岩 北魏時代・正光6年(525) 1918年、山東省清州市収集 山東省博物館蔵
山東地域の北魏仏を代表する違例。線条的で細緻な表現には、石彫における伝統的な技の冴えがうかがわれよう。この像が発見された清州市とその一帯は、隋時代(581~618)頃まで、山東における造寺、造仏の一大拠点であった。地理的に見て、古代の朝鮮半島や日本とも、何らかの交流があった可能性もあろうという。時代ごとに、この重そうな衣裳に嫌気がさし、段々と薄着になっていくようでもあるなあ。 
このように北魏後半の中国式服制になって以来分厚い着衣が鰭状に左右に広がる、いわゆる北魏様式が、東魏時代には次第に簡素になっていった。
北斉時代は造像の風格が突然変化したような印象を与える。髻が低く平らになり、両目は僅かに閉じ、従来扁平であった胸部がやや突起し、腰は低く、下腹が出っ張り、合わせた両足は長く、ぴったりとして透けた着衣によって、優美な体形を引き立てている。  ・・略・・  菩薩の着衣は簡素であるが、しかし装飾品は煩雑かつ華美である。「山東造像の風格」はこの時期において既に成熟しており、このような透けた薄着の造像風格は一体どこから伝わったのかは学者の論争の的となっている。南方からという見方や、中央アジアからという見方、または透けた薄着の発祥地である古代インドから伝わったという見方など、様々であるが、いまだ確かなことは分からない
という。

統一新羅の造像様式の源を山東省の北斉時代の造像様式に求めてきた。同じ物はなかったが、身体の線が出る着衣や、装飾的な着衣というのはこのあたりの影響があるのではないだろうか。
それにしても、統一新羅でもインドから直接造像様式が将来された可能性がとりざたされ、山東省の北斉時代でも同じような説があることが興味深い。

掘仏寺址の四面石仏についてはこちら
慶州博物館野外展示の石仏についてはこちら

※参考文献
「中国国宝展図録」(2004年 朝日新聞社)
「中国山東省の仏像展図録」(2007年 MIHO MUSEUM)