『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』は、西周期になると饕餮文は急激には廃れないものの、しだいに数を減じてゆくようになった。中期の穆王、共王期ぐらいからは形が崩れて変形された姿のものも登場するようになる。定形がなくなり、上下幅の狭い帯状帯に収まる例が増え、目以外はしだいに退化してゆき、最後には目の両側に体がくねるのみのいわゆる窃曲文となったという。
同書を見ていると、確かに前10世紀までのものと、前10世紀以降のものとでは青銅器の文様が異なってきていることが明らかだった。
6 波曲文鼎(はきょくもんてい、大克鼎) 西周後期(前9-8世紀) 伝陝西省扶風県任村出土 上海美術館蔵
口縁下には、饕餮文が変形して目玉の周囲を胴体の残滓が巡る形となった窃曲文が3組、その下には波状のうねりのあいだに崩れた夔龍文が入る波曲文(環帯文)が一周する。 ・略・ 文様が本来もっていた意義よりも文様の装飾としての視覚的な効果のほうに重きがおかれている。足は下広がりの獣足となり、上部に饕餮文がつけられるという。
1つのものに窃曲文となってしまった饕餮文と、饕餮のままの饕餮文が表されていて、過渡期の作品かなあと思って見れば、脚部の饕餮の表情が元気がなさそうだ。

蓋の縁には窃曲文が一周する。腹部の四面の広いスペースにはそれぞれ双胴の龍が大きく描かれ、その胴体はうねり曲がって、ほかの龍文と複雑に絡み合っている。春秋以後に流行する蟠龍文の原型となるものであるという。
この窃曲文は四弁花の蔓草が帯状に巡っているようにも見える。しかし、中国で植物文が出現するのはずっと後のことである。それまでの主役であった饕餮と、その後ずっと主役であり続ける龍がちょうど入れ替わった時期のような作品だ。

盨とは穀物を盛る器で、西周時代中期から現れる。蓋の上には龍形の装飾が四つつき、中央に虎形の飾りがつく。身には短側面に龍首付きの耳がつく。蓋の縁と身の口縁は窃曲文で飾られ、その下に瓦文が施されるという。
饕餮が主文であったころに地文であった雷文ほどには小さくないが、ただの装飾文様となってしまったようだ。

器壁に窃曲文を飾り、足には透彫りの波曲文を2段に表している。豆は、後になると蓋がつくが、この時期にはまだないという。
まだ目が出ているだけ8よりもましに見える。豆は食物を盛る容器。

「肩部に窃曲文の崩れたような文様帯がある」としか表現されていない。 饕餮文がこんな風になってしまうとは。

同書は「竊(せつ、窃は異体字)曲文」について、夔(き)文の変形退化したもので、中央に眼が一つあり、その両側にC字状あるいはS状に曲がる胴体を持つ。眼以外の口・角・足は全く見られない。西周中期から春秋前期に流行した。
商周時代の龍形文は、まず夔文が発達し、ついで螭(ち)文に変化する。夔文は、横向きで大きく口を開け、その口の付け根あたりに眼と角が付き、細い胴体に一本足と尾を持つという。
ということで、またもや異なった見解が出てきてしまった。 饕餮文と後世になって関係のない名称をつけられたにしろ、その時代まで何かの形で伝わらなければ、名の付けようもないはずだ。
※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「泉屋博古 中国古銅器編」 2002年 泉屋博古館