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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2006/09/30

法隆寺金堂天蓋から3 中原の石窟には



中国にはこの時期の寺院が残っていないので、敦煌莫高窟以外の石窟で法隆寺金堂天蓋の小札形垂幕と三角形垂幕の組合せの装飾を探してみた。
そして見つけた。それは河南省洛陽市の龍門石窟賓陽中洞の窟頂にあった。この窟は敦煌莫高窟で見たような伏斗式方形窟ではなく、ドーム窟となっている。 
ドームの中央部に大蓮華、その周りに飛天、その外周に玉縁飾り、そして更に外側に2列の小札形垂幕と三角形垂幕がいずれも浮彫で表れている。小札形というより円花文に近い。
龍門石窟は、五胡の1つ、鮮卑族から分かれた拓跋鮮卑が建国した北魏(386から534年)が平城から洛陽へ遷都後開かれた石窟である。北魏の仏教美術の様式は、この遷都によって大きく変化する。洛陽という中原の文化の高いあこがれの地に遷都して、急速に漢化が進むのだ。
それにもかかわらず、龍門石窟の窟頂が中国様式の伏斗式方形窟ではなくドーム窟であるのは興味深い。というのも鮮卑族は遊牧騎馬民族であったので、元々フェルト製テントで生活していたらしいのだ。

そのことが拓跋鮮卑の貴族の墓から発見された副葬用の陶器からわかる。『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、鮮卑族が遊牧生活で常用していたフェルト製テントをかたどったものである。上にはふたつの窓があり、晴れた日には窓が開けられ、テント内の風通しと採光を良くすることができた。風の強い日や雨の日には窓が閉められたという。
また、北魏滅亡後二分したうちの東魏時代(534-550年)の鄰和公主の墓でさえも墓室はフェルト製の天幕に似たドーム状の天井であったようだ(下図も同書より)。
遊牧民族にとって、ドーム状の天井というのは、それほどに忘れがたいものだったとすると、494年に洛陽に遷都した北魏の孝文帝が漢化政策をすすめ、同時に洛陽郊外の龍門に石窟の開鑿を始めたにもかかわらず、中国風の伏斗式でなくドーム窟にしたこともうなずける。
そうなると、小札形垂幕と三角形垂幕の組合せ装飾は、鮮卑族のフェルト製テントの内側を飾っていた装飾であった可能性がある。

東魏を滅ぼした北斉の時代(550から577年))に河南省安陽市に開鑿された小南海石窟の中で、中窟は天保元(550)年に造営が始められ、同6(555)年に完成した。
その窟頂は中国風の伏斗式となっており、そこには天井壁面のかなりを占めて、小札形垂幕と三角形垂幕が浮彫で表されている。胡様式と漢様式の融合であろうか。
また、これは敦煌莫高窟の北周時代(557から581年)の窟頂の図様と同じと言って良いのではないだろうか。
 
このようにして、私の知り得る限りでは、小札(こざね)形垂幕と三角形垂幕の縁飾りは北魏時代にドーム窟の窟頂において始まり、北斉時代に伏斗式の窟頂で、法隆寺金堂天蓋と同じ四角形の囲むようになったように思われる。ただし、それは石窟の内部と、天蓋の外側という違いはある。
では、この四角形を囲む小札形垂幕と三角形垂幕はどのようにして日本に伝わったのだろうか。


関連項目
天井の蓮華

※参考文献
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」2000年 小学館
「図説中国文明史5 魏晋南北朝」2005年 創元社