ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/01/31
世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた(続)
今回も『熊山散策のしおり』と、案内板の説明を参考に作成しました。
熊山とは、もとは吉備の国の中心から離れた、かくれたところ吉備地方の東南の隅(くま)の霊山というところから、「くまやま」と呼ばれていた。中世の文献に、「熊山」と表記されているという。
そして、熊山遺跡は「熊山石積遺構」という奈良時代の国指定史跡だった。石積遺構を東側より反時計回りに45度ずつ回って撮ってみました。
東側 手前の開けた場所には帝釈山霊山寺というお寺があったらしい。
帝釈天霊山寺は、建武3(1336)年、児島高徳の挙兵と戦乱によって荒廃したが、14世紀末から15世紀には再建された。その後荒廃したが、江戸初期元和8(1622)年ころ再興され、本堂と権現社を再建した。らしいが、現在建物は残っていない。左手前の石の並んだところに鐘楼跡がある。北東側より 大きさが分かるように人の写っているものにしました。北側より お昼前後だったので、逆光でまぶしい。北西側より 回っていくと、基壇の下に岩盤が見えてきた。 西側より ここまでくると、上の石積遺構の材料が平地から担いで登ったものではなく、この岩盤を砕いたものだということがわかる。南西側より 岩盤は苔むしている。南側より 龕(がん)には何も残っていない。仏塔なら仏像があったはず。南東側より このようにすべての角は崩れることなく、整然とした形で残っている。このような熊山石積遺構は、石の材質は流紋岩、かつて磐座(いわくら)であった巨大な岩盤を取り入れたほぼ方形の基壇の上にこの巨岩を砕いた石を、幾何学的構図によって、3段に築成している。
第1段は南面が狭く北面が広い台形。第2段は南面が広く、北面が狭い台形になっている。第2段の四側面の中央に龕(がん)が設けてある。第3段は方形であるが、中央部分に大石で竪穴の蓋がしてある。
石積の中央には竪穴の石室(2m)が作られていて、その石室に陶製の筒型(5部分に分かれる)の容器(高さ1.6m)が収められていた。その容器の中から、三彩釉の小壺、皮のようなものに文字が書かれた巻物の類が出土したと言われている。陶製筒型容器は現在、天理市の天理大学にある。
3段の石積の目的について従来、戒壇説、墳墓説、経塚説などあったが、近年の研究によって、出土遺物、龕の存在などから、仏塔としての性格を備えた石積み(奈良時代前期)であることが判明した。
山頂の遺跡のほか、熊山山塊標高350m以上に規模の大小の異なりはあるが、類似の遺構が32基確認されている。国指定の石積遺構に類似しているが、築成の目的、年代、築成者などは異なるものと思われるという。
平面図と断面図が案内板にあり、龕の奥行きがかなりあることがわかる。管理棟の南側に展望台があるらしいので行ってみた。吉井川の下流。晴れていたら児島湾が見えたかも。鉄塔の下には岩がごろごろしている。これが説明にあった32ある遺構の1つ?いや、それらは「石積遺構に類似している」らしいので、もともとあった岩かも知れないが、何かの信仰の対象だったのではないのか。
そういえば、熊山神社にあった「児島高徳の腰掛け岩」も切石を積んだものよりも古いのでは。そうだ、石積遺構の下の岩盤も、昔は大岩として信仰の対象だったのかも知れない。このようなきっちりとしていない岩の方がより古い信仰を集める岩で、熊山がそのような人々の拠り所とするものがたくさんある山だったのかも。「霊山」というのは、このような仏教以前の信仰の山ということだろう。
やがて仏教が広まると、古い信仰が忘れられ、祀られることがなくなったり、その上に仏塔が造られたりしたのではないだろうか。32もある石積遺構に類似したものは、仏教時代の塔だったり、墓だったりするのかも知れない。
このような景色をみていると、今でこそ海抜508mの山の熊山だが、いにしえの昔は島で、人々は四方からこの信仰の島へ祭祀のために舟でやって来たのかも知れないなあと空想してしまう。すっきりと晴れていれば小豆島が見えるのに。『世界ふしぎ発見』では、この熊山石積遺構や奈良の頭塔について、ボロブドゥールからこのような階段ピラミッドが伝わったのかも知れないというようなことを言っていた。誰かがインドから南回りで帰国したので、途中でボロブドゥールに寄って見た可能性があるというような内容だったと思う。
そこでボロブドゥールについて調べてみた。Wikipediaによると、インドネシアジャワ島東部にある大規模な仏教遺跡で安山岩や凝灰岩を用いて建造されている大乗仏教を奉じていたシャイレーンドラ朝で、ダルマトゥンガ王の治世の780年頃から建造が開始され、792年頃一応の完成をみたが、サマラトゥンガ王(位812年から832年)のときに増築している。ということだ。
この熊山石積遺構は奈良時代前期なので、710から784年までの前半、頭塔は「史跡頭塔のご案内」によると、神護景雲元年(767年)に東大寺の僧実忠が土塔(どとうがなまってずとうとなった)を築いたと古文書にあるらしいので、ボロブドゥールよりも古いことは明らか。似ているからといって、全てが伝播したものとは限らない。
ところで、石積遺構の竪穴の石室にあった、陶製の筒型容器に収められていた三彩釉の小壺と皮の巻物は、昭和初期に盗まれてしまったと、Wikipediaの「熊山遺跡」に書いてあった。熊山頂上に石塔が造られた時からすると、昭和初期などほんの少し前のことではないか。残念!
しかし、陶製の筒型容器の方は天理参考館に収められているので、どんなものかわかるかも。筒型の容器は埴輪の転用だったのだろうか。近くには両宮山古墳を初め、古墳がたくさんあることだし。それにしても、大きな筒型の容器をよく山の上に運んだものだ。
それに、時代は鎌倉まで下がるにしても、山の上で大きな壺や甕を焼いたのは頂上の霊山寺やあちこちに32あるという石積遺構の需要のためだったのだろうか。
また、同しおりにはあの鑑真和上と「くまやま」についても記してある。鑑真和上と「くまやま」との関わりは「しきび」の香によるものである。伝説的であるが、和上が香登(香の産地)で「しきびで製造したお香」のかおりに心ひかれ、この地に「しきび」があるのかと尋ねられた。くまやまにあると答えると、お弟子を山に登らせ、「しきび」を持って都に登られた。都での仏事法会に「しきび」を用いられた。このことから、鑑真和上とくまやまの縁が生まれ、唐招提寺の和上御影堂の傍らにくまやまのしきびが植えられている。
石積の説の1つに戒壇がある。「熊山町のはなし」では「鑑真が授戒を行うために築いたといわれ、別名「熊山戒壇」とも呼ばれています」とある。また「天平勝宝6年(754)、遣唐副使吉備真備の帰国する舟に便乗し、孝謙女帝の御世に、来朝を果たしました」ということなので、戒壇説よりは「しきび」の方が可能性があるかも知れない。しかし、歩いていてしきびの香りは気付かなかったなあ。鑑真さんは鑑真さんと戒壇院にも書いたが、東大寺に戒壇を築き、太宰府観世音寺と下野薬師寺にも戒壇を築いたらしいのだが。
関連項目
世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた
頭塔を見に行ったら
再び頭塔を見に行ったら