ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2006/07/07
鑑真さんと戒壇堂
東大寺蔵 「俊乗坊重源像」(鎌倉初期)も力強い肖像だが、唐招提寺蔵「鑑真和上像」(奈良末期)も鑑真さんが生きているような肖像だ。 美術史をやっているくせに、「鑑真和上像」はつい数年前まで木彫だと思っていた。脱活乾漆だと知ったのは、仏教美術の講座である。
その時の講師元岡山大学教授の斉藤氏は、お寺が火事になって、大切な仏像を持ち出すのに、一番楽なのは脱活乾漆像です。
軽いので運び易いし、多少へこんでも、目立たない箇所を切り開いて、内側からポコポコたたいて凹みを直すことができます。後は切ったところを縫い合わせて、ちょっと修復したらOKです。
火事で一番被害を受け易いのは塑像です。熱で割れたら終わりですという。
氏の天平彫刻や、鑑真さんが唐よりもたらした、新しい仏像の様式がやがて平安前期の塊量感ある造像様式(貞観彫刻)のさきがけとなったことなど、私が昔勉強した頃とは違う新しい美術史に触れて、奈良博の特別展「天平」を見逃したことを悔やんだ。
東大寺というと大仏つぁんが邪魔して、他の建物を見学しようという気になれなかったのだが、せめて東大寺の天平彫刻を見たいと、氏の話を聞いて奈良に出かけた。
その最初が戒壇院だった。現在の建物は大仏殿同様、江戸時代のものであるが、聖武や孝謙が受戒した大仏殿前の土壇をこの地に遷して戒壇堂を築き、伽藍を造営したのが戒壇院の起こりらしい(東大寺の本より)。
中は暗かったが、戒壇を守護する四天王の塑像を四方八方から眺めることができた。
次ぎに東大寺の裏手を回って法華堂へ向かった。三月堂とも呼ばれ、お水取りが行われる二月堂の向こうにあった。JR奈良駅近くで借りたレンタサイクルはおばチャリだったので、上り坂になるとこぐのがきつかった。何故か浅い側溝にはまりはまり、なんとか行き着いた。 本尊不空羂索観音像は脱活乾漆で、補修中か清掃中だったため、脇侍の日光・月光菩薩が前面に置いてあってよく見えた。日光・月光は塑像である。 ここの坊さんは野太い声で「今だけや、よう見といて」とわめくように言ったが、他の見学者同様懐中電灯で照らして見ても「止めろ」とは言わなかった。
法華堂の四天王像は、先程の戒壇堂のものと時代は同じだが脱活乾漆という技法でつくられている。梵天・帝釈天・金剛力士像も脱活乾漆で、興福寺の十大弟子・八部衆立像と同じだ。
その鑑真さんだが『ウィキペディア』によると、754年(天平勝宝6)1月、鑑真は平城京に到着し、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立されたという。
また、太宰府観世音寺は、九州随一の仏像彫刻の宝庫である観世音寺の歴史は、奈良時代にさかのぼる。
発掘調査によると、回廊で囲まれた内側の東に塔、西には金堂が東面して建つ、川原寺式に近い伽藍配置であった。その後天平宝字5年(761)、鑑真によって当寺に戒壇院が設けられた。これは、僧になる者が受戒をするためにわざわざ都へ出向かずとも、観世音寺で受戒ができることを意味した(奈良の戒壇院、観世音寺、下野薬師寺を天下の三戒壇と称する)という。
本当に鑑真さんは太宰府観世音寺までやってきたのだろうか?下野薬師寺にも行ったのだろうか?
それはさておき、観世音寺を見学した時残念ながら戒壇院があることに気がつかなかった。ジャンプ!ことまち太宰府に戒壇院の写真がたくさん載っている。
後者には開山が鑑真和上であることを明記した板が大きく写されている。やはり鑑真さんは太宰府まできたということか。
戒壇院と思っていたが、戒壇堂が正式名称でした。
関連項目
東大寺戒壇堂の四天王像
※参考文献
水野敬三郎著『カラー版 日本仏像史』2001年 美術出版社
日本の国宝 別冊『国宝と歴史の旅1 飛鳥のほとけ 天平のほとけ』1999年 朝日新聞社
『太陽仏像仏画シリーズ1 奈良』1978年 平凡社
『東大寺』1996年 東大寺発行