ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/03/23
饕餮文は瓦当や鋪首に
何か饕餮文のあるものがないか調べてみると、瓦当(がとう、軒丸瓦・鐙瓦)が見つかった。
11 半瓦当 灰陶 戦国時代の燕国(前403-222年) 個人蔵
『中国古代の暮らしと夢展図録』は、屋根を瓦で葺くということは西周時代(前1044-771年)に始まったとされる。戦国時代になると諸国が都市や宮殿など土木事業を盛んに行ったので、製瓦業が発達した。瓦当は軒に配置される丸瓦の頭で、戦国時代には地域ごとに特色ある装飾がなされ、大建築を飾った。饕餮文の半瓦当は燕国(現在の河北省地域)の典型である。饕餮とは、口だけあって腹がない神話上の怪物で、なにもかも喰らい尽くすといわれ、殷・周時代の青銅器には欠かせない辟邪の文様であった。力強く重厚な作行きである。この半瓦当の大きさ(径37.0cm)からみて、想到に大きな建築物を飾っていたことが推測されるという。
この展覧会では幾つか瓦当があったが、これは特に大きかった。しかし、当時は饕餮は辟邪であると思っていたし、大喰らいのことは聞いていたので、この解説に納得した。
しかし、饕餮は王だったのかでそうではなかったことがわかった。何時の頃からか、饕餮文が辟邪として表されるようになり、この戦国時代の瓦当に表された饕餮文は、すでに辟邪という役割があったのだろうとしか言えない。
瓦当はたくさん遺物があるようだが、図版としては11しかなかった。「中国文物資料館 アトリエ246」の戦国時代の最大級瓦当には戦国時代、11と同じ燕国の瓦当と、斉国のものが出ていて、それぞれの特徴がわかる。
また、検索していると奈良国立博物館の『メールマガジン 第9号』にあたり、「特集展示 日本瓦の源流」というのがあることが分かった。3月26日までなので間に合ったと思ったが、よく見ると平成18年2月のものだった。1年前に気がついていれば見に行くことができたのに、残念!
他に饕餮文に似たものはないか探してみると、鋪首(ほしゅ)の獣面が気になってきた。
12 玉環金鋪首 玉、金 長さ2.8cm 戦国時代(前5-3世紀) 陝西省千河県出土 宝鶏市陳倉区博物院蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、金製の獣面と玉製の円環からなる鋪首(扉のノブ)。扉や器物の引き手の役割を果たすとともに、魔除けとしての意味が込められた器物で、戦国時代から作例があり、 ・・略・・ 獣面は、ふたつの大きな目と獣の耳をもち、額に矢印のような文様をもつなど、殷周時代以来の饕餮文の系譜に連なる意匠と考えられるという。
青銅器から消えていった饕餮文は、恐ろしい獣の顔面であったために、辟邪ということで生き延びることができたのだろうか。
13 獣面文の玉製鋪首 大きさ不明 前漢時代(前206-後8年) 陝西省咸陽市茂陵出土 陝西茂陵博物院蔵
『図説中国文明史4秦漢』は、宮殿の正面に飾られた。中央の獣面文は、口を開いて鼻を巻き、歯を露わにしており、その形態が凶暴であるため、魔除けと墓を鎮める働きがあるという。
饕餮文と特定してはいないが、12と全く違うものとも思えないので、これも饕餮と思って間違いないだろう。シルクロードを開拓した武帝の墓から出土したものらしい。
14 鎏(りゅう)金銅鋪首 青銅鍍金 高7.8cm 前漢(前2-1世紀) 陝西省西安市紅廟坡村出土 西安市文物保護考古所蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、12に比べ、獣面の表情が整合され、より現実の獣のそれに近くなっているのは、時代の推移によるものであるが、邪悪なものを打ち払うという意味合いをもつことに変わりない。宮殿建築をはじめ、各種の建物に多用され、また、地下に営まれた墓の門扉などに設置されることも多かったようで、今日でも戦国から漢、唐時代にいたる相当数の作例が知られているという。
12・14が小さなものなので、このような鋪首は副葬品に付けられてるのかと思ったが、現実の建物にも付けられていたのだ。鎏金は金メッキ。
このように、青銅器では饕餮文は窃曲文になってしまったのかも知れないが、辟邪として残ったからこそ、敦煌莫高窟285窟の辟邪は饕餮だったのだ。前漢から西魏まで、饕餮文を辿ることができるだろうか。
※参考文献
「中国古代の暮らしと夢展図録」 2005年 発行は様々な美術館
「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」 2006年 TBSテレビ・博報堂
「図説中国文明史4秦漢」 劉煒著 2005年 創元社