はて、どんな文様があったかいなと『織部の文様』という本を久しぶりに手にとってみた。
編者の河原正彦氏は京博の元学芸員で、刊行されなくなって久しい至文堂の『日本の美術』でも多くの号を編集されていたが、2017年に逝去された。
同書は、豪華絢爛といわれる桃山時代の歴史的風土のなかで、育まれた織部焼は、他に類をみないデザインを織りこんでいた。その息吹を感じとり、美濃地方に点在する古窯址から発掘された陶片をもとに出版されたのが、加藤卓男編の豪華本『織部の文様』(1985年 光村推古書院発行)である。しかし、現在古書としても手に入れることは難しく、それは惜しくも絶版となっている。
本書は、それに百余点の資料を新しく加え、さらに織部焼の食器としての位置づけを説いた最新の論文によって、織部の真相にせまり、再編集して入手しやすい普及版として刊行するものである。
美的とは言えないにしても、自由奔放、豊饒、土の香りのする溢れくる命ともいうべき「かたち」と「文様」から、織部焼の魅力を汲み取っていただけることを期待してやまないという。
従って、同書の図版はほとんどが部分的に残った陶片になる。
河原氏は同書の「料理と食器と誂えと」で、従来、桃山時代を代表する「やきもの」(陶器)といえば、茶碗や水指、花入や香炉、香合など、いわゆる狭い意味での「茶陶」が圧倒的に多く、その代表的な器種とされてきた。
狭義の「茶陶」に加えて、この時代に新しく登場し、時代を代表する新しい造形性と機能性をみごとに発揮したのは、料理のための器、「飲食器類」ではなかったかと考えている。
つまりそれは、茶の湯の深まりと茶碗や水指、そのほかの茶道具の選択や創造性だけが、桃山陶芸の牽引力となったのではなく、この時期にこそ、この時代らしい豊かな暮らしぶりが生み出した飲食器類、なかでも「小皿」や「小鉢」、「向付」や「皿」、「平鉢」、「「深鉢」、「蓋物」などに、新たな創造性の存在を見いだす必要性があるのではないかと考えている。
その意味で、ここではもう一度桃山時代の「やきもの」、なかでも美濃地方に展開された志野や織部の実像にせまり、さらには、美濃地方の陶芸を特色づける「織部」と呼ばれる一群のデザイン、得意な意匠性について、今日ややもすれば忘れがちである過去に発掘・採集され、貴重な資料として伝えられている「陶片」を中心に、考察を深めていきたいと考えている。
いうまでもなく今回、この図録に収録されている美濃の「志野織部」、「総織部」、「青織部」、「鳴海織部」、「弥七田織部」などの陶片は、こうした昭和5・6年(1930・31)から第二次世界大戦に及ぶ時期に、乱掘され、または採集され、いろいろな経路をたどって、いまの施設や個人の場所で保管され、所蔵されてきたものである。
しかし、こうした一片の「陶片」から、その完全な姿形を思い描き、文様や釉薬、なかでも鮮烈な織部の緑釉の美しさや変化の様子を楽しみ、絵画的なヒゲや意外性の強い斬新な文様構成などから、この時代の息吹を感じ、さらには実際に「陶片」に触れ、握って視覚的なものと同時に、触知的な感性を呼び覚ます経験は、「ものを楽しむ」日本人としての新しい鑑賞の領域を圧し広げていったと確信している。とくに食器を手にもち、唇に触れる日本人の食事習慣が独特の「触知的な感性」を形成し、ある意味では日本人の「美的規範」を形成してきているものと確信しているという。
「織部」の作風と文様
同書は、織部焼の器種やその造形、さらにそれにほどこされた文様、意匠には独特のものがある。
飲食器に施されている文様について見ていくと、一種類だけの文様素材を使うのではなく、複数のものを組み合わせて使う「複合的文様」構成をなしていて、基本的には日本の文様構成を特色づけるものの一つであるということができる。
そして従来から指摘され、言及されてきたとおり、織部焼の意匠とそれよりわずかに先行する染織品である「辻が花染」との関連性や共通性については、時代の好みであるとともに都市部で流行した最先端の意匠の導入であったことが具体的に指摘されている。
そして織部の緑釉の使い方が、器形を二分するように、片身替わりや段、対角の両隅に緑釉を施し、中央を書き絵の文様帯にするなど、緑釉の使用の効果は抜群であり、桃山時代を特徴づける構図取りであるということができる。そして文様の素材は、各種の縞文様、格子、段、島取りなどをはじめ、石畳、鱗、亀甲、松皮菱、扇面、矢襖、桐、菊、松、竹、蓮、葡萄、桜、梅、椿、桔梗、竜胆、萩、沢瀉、薄などのほか、各種の草花、波濤、千鳥、鷺、渡鳥、もろもろの道具にも及び、文様素材は枚挙に暇ないほど多様であるという。
その中で今回は幾何学文。
縞文様
『大織部展図録』は、幾何学文様のなかでも、織部の意匠を特色づけるものは、何といっても各種の縞文様であろう。縞文様は、染織品の織技から生まれる幾何学的な文様で、大きく分けると縦縞、横縞、縦横縞(格子縞)になり、縞柄の名称もその時代によってさまざまな異なった名前がつけらけているという。
また『織部の文様』は、織部焼や志野織部の意匠では、太めの縦縞や細縞、よろけ縞、それぞれ太縞と細縞、太縞の間によろけ縞を入れるなど、両者を組み合わせた縦縞や横縞などがあるが、単に縞だけの文様ではなく、山道や鋸歯文とうまく組み合わせて変化をつけ、あるいは矢襖など具象的な文様と組み合わせて、一つの完結した文様部分を作っているという。
縦縞文
太縞と細縞が2本ずつ、その太さも間隔も一定せずに自由に描いている。
口縁部には斜格子文。点文が枠にはまらないののも織部焼らしい。
よろけ縞文
青織部よろけ縞文筒向付
よろけ縞だけが縦に並ぶが、文章を草書風に適当に崩して書いたようにも見える😊
青織部よろけ縞文筒向付 |
矢襖文
志野織部横縞に矢襖文筒向付
口縁部には胸壁らしきもの。その胸壁は二重線で描かれている。
その下に矢襖。適当に間隔をあけて、矢が描かれる。横縞も適当な間隔。
釉薬はなめらかに溶け、緋色も出ている。文様が戦に関わるモティーフなので、黒っぽい鉄絵が力強く合っている。
志野織部横縞に矢襖文筒向付
矢襖文といっても四方に2本ずつ?胸壁は一重
志野織部横縞文筒向付
胸壁は太線の両側に細線を配している
斜線文
志野織部縞文鉢
志野織部襷文筒向付
青織部網目文向付
斜格子文と点文
青織部網目に縞文向付
網目文とその交点に点文が配される。網目文は直線が一般的だが、曲線というか、よろけ縞が交差しているというか・・・🤔
青織部格子文香合
青織部格子文筒向付
縦横ともに太い縞と細い縞が交互になって、細縞の交差部に点文が4つ
志野織部格子文向付
青織部格子文向付
青織部幾何学文向付
2本の細線と点文の組み合わせでこんな文様もできるのかと思ったが、サントリー美術館蔵織部四方蓋物内側の太鼓橋の図柄(下図版)を真似て描いているうちに、本来の図からかけ離れた文様になっていったのでは🤔
2本の細線と点文の組み合わせでこんな文様もできるのかと思ったが、サントリー美術館蔵織部四方蓋物内側の太鼓橋の図柄(下図版)を真似て描いているうちに、本来の図からかけ離れた文様になっていったのでは🤔
青織部幾何学文向付 |
織部四方蓋物 内側 桃山時代 17世紀 高さ9.27幅20.0奥行18.0㎝ サントリー美術館蔵
『大織部展図録』は、内側には蓋表と同じ反転した鹿の子文と太鼓橋が鉄絵であっさりと描かれているという。
織部鉢 桃山時代 17世紀 高さ6.3幅22.0奥行19.8㎝
『大織部展図録』は、斜めに銅緑釉を掛け、片身替わりとし、白地には枡を点と線で繋ぎ規則正しく並べ、外側面にはV字の文様が連続する。鉄絵は細く繊細だが、銅緑釉はたっぷりと掛かるという。
『古田織部展図録』は、3つの六角形を組み合わせた形である。織部の向付のうちでも古態を示している。
見込みは3つの六角形の輪郭を描き、その内に梅花文・網目文など織部が他の道具でも好んだ文様を描く。筆遣いはやや粗く線が太く、躍動感があるという。
織部釉のところに布目のようなものが見られる。それは、織部釉がはみ出さない工夫?
茶碗の幾何学文様
黒織部茶碗 桃山時代 17世紀 高さ7.7口径11.4-13.9㎝
『大織部展図録』は、高台脇に古田織部の花押を鉄絵で記す。
典型的な沓茶碗で、黒釉の掛け残しをつくり、丸や四角、点の幾何学文様を描いている。謎の多い古田織部と織部焼とを直接結ぶ貴重な作品であるという。
黒織部茶碗 桃山時代 17世紀 高さ6.5-7.8口径10.2-13.8㎝ 銘わらや 五島美術館蔵
『大織部展図録』は、正面を避けて鉄釉を左右に掛け分け、掛け残した正面には縦筋に丸や三角などの幾何学文を筆で描き、長石釉を掛けている。轆轤成形したのち、大きく力を加えて楕円に歪めているという。
黒織部茶碗 桃山時代 17世紀 高さ7.3-8.5口径10.5-15.0㎝ 梅澤記念館蔵
同展図録は、見込みには掻き落としで文様が施されている。文様は葦と鶴とも百合文とも解されるが、筆で描かれるのではなく、掻き落とし文のみの黒織部茶碗は希少である。正面にも見込みと同様の文様と、∧の彫文が施され、他に類例のない作であるという。
口縁部はこの3碗の中では最も力強い。「∧」の文様がなかったら、幾何学文様に分類できない😓
見込には、走っている人物が線刻され、その人物を取り巻いているような動物は、ドローンで上空から見下ろした尾の長い馬とか😁 ←たわけもの🦔
黒織部茶碗 桃山時代 高さ8.2口径11.4-13.9㎝ 相国寺蔵
『古田織部展図録』は、白窓には銹絵で異なる幾何学文様をそれぞれに描くが、各窓の右側の鉄釉の部分に、窓と同系統の文様を掻き落としで描いているので、あたかもネガとポジを並べたように見える。白と黒の背景はよく似ているが文様は異なる二種の絵による片身替わりとなっているという。
陶工が楽しみながら制作しただろうなと思わせる作品である。
『大織部展図録』は、近年では、考古学的には様々な知見が増加し、また、茶の湯に関する文献の研究も進展を見せ、再編集なことが明らかになりつつある。とくに、文禄・慶長の役に関連して、その多くが強制的に渡来させられた朝鮮王朝の陶工たちが開窯した西日本諸窯のやきものは、日本陶磁史に新たな流れをつけくわえた。この流れは既存の窯業にも影響を与え、日本陶磁史は中世からいっきに近世的な様相を見せることとなった。なかでも、穴窯から登り窯への転換は、熱効率の向上による品質の転換や生産高の増加をもたらし、陶磁器の流通にも、大きな影響を与えることとなった。このことは、日本陶磁史に新たな広がりを生むこととなり、それがまさに、織部の時代と重なるのであるという。
桃山時代から江戸時代初頭には、利休の真形(しんなり)から織部のへうげ(ひょうげ)へ、そして遠州の綺麗さびへと茶陶の好みもどんどんと変わっていく、興味深い時代である。