無信もうじゃさんから以下のようなコメントがあった。
事のついでに言うようなものでは有りませんが、若い頃から気に為っていることを聞いて下さい。それは法隆寺の金堂の柱に巻き付けてある龍の彫刻です。江戸時代に取り付けたそうですが、これを眼にした時何ともいえぬ腹立たしさがこみ上げてきました。それ以来この気持に変わりありません。これは私だけの偏見でしょうか。我が国最古の建造物をけがしているように思えてなりません。如何
それは以下の写真(1994年『法隆寺昭和資財帳調査完成記念 法隆寺国宝展』図録より)黄色い矢印の柱に巻き付いた龍のことと思われる。
私も金堂の龍は江戸時代に補強のために加えられたもので、はずしたくてもはずせないと、土曜講座で元神戸大学副学長の田淵敏樹氏から聞いたことがある。
しかし、いつも参考にさせてもらっているウィキペディアの法隆寺には
金堂(国宝)入母屋造の二重仏堂。ただし上層に部屋等がある訳ではなく、屋根を二重にしたのは外観を立派にするためである。金堂に見られる組物(軒の出を支える建築部材)は、雲斗、雲肘木などと呼ばれ、曲線を多用した独特のものである。この他、二階の卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「人」字形の束(つか)も独特である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺三重塔のみに見られる様式で7世紀建築の特色である。二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため鎌倉時代の修理の際に付加されたものである。
また、大和路写真帳[金堂の龍・法隆寺] には、法隆寺の金堂の大屋根を支える柱に龍の飾りがあります。創建当時は無かったそうですが、江戸時代の大修理の時に大屋根の重さを支えるための柱をつけられたそうで、その時に龍をつけられたとのこと。災難よけを願ってのことと推察します。東南、西北には昇り龍、西南、東北には下り龍がつけられています。これは西南の下り龍です。
こいちゃの日記「法隆寺(7)@奈良斑鳩」には、金堂を支えるゾウの写真もあった。また、前ページには五重塔を支える邪鬼の写真もある。
ほぼ日刊イトイ新聞「法隆寺へ行こう!」には、あの龍は、落ちないようにポーンと、たてているだけ。まぁ、あとで直した人たちの手抜きやなぁ。もう、今となってはあれはハズせないけど。俺だったら、トーテムポールみたいなものがなくても持つように、一生懸命考えるけど。これは慶長時代の修理やが、簡単に、安くなおすことを考えたのかもしれないんや。という宮大工小川三夫氏の言葉があった。この「法隆寺へ行こう!」は法隆寺のいろんなことを小川氏が語っている。大きな写真もあって面白いので、最初のページから開くのをお勧めします。
そこで『法隆寺国宝展』図録の解説をめくってみると、隅の肘木には大きな力がかかるため、後世に軒支柱が立てられている。この弱点はかなり早くからわかっていたらしく(以下略)と山岸氏がさらりと書いているが、龍についての記述はない。何が真実かわからなくなったが、悪趣味であることに変わりはない。 蛇足だが、同展図録には金堂高欄の卍崩しと人字形割束の写真と
隅出桁下雲肘木の写真があった。
これらについて同展図録に山岸氏は以下のように解説している。
この高欄の意匠をはじめ、飛鳥様式の源流は4世紀から7世紀にかけての中国大陸の石窟・石造建築や壁画に求められる。
例えば、柱の胴張は後漢の四川省楽山岩窟墓や北斉の河北省定興の石柱に、雲斗・雲肘木の形は直接の源流となるものはないが、北魏の雲岡石窟や後漢の明器等に類例がある。
45度方向にのみ出る組物は後漢の明器に、卍崩し高欄や人字形割束は北魏の雲岡石窟を初め、唐の永泰公主墓壁画等に見られ、皿斗も北魏に流行したものである。
このように飛鳥様式は、ある時代の様式を一括して輸入したものではなく、むしろ特徴の大半が高句麗の古墳壁画等に多く見出せることから、直接は朝鮮半島からもたらされたと考えられている。
無信もうじゃさん、このようなすごいものが法隆寺にはあるのですから、悪趣味の龍は忘れて、それらの意匠が伝播した道に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
関連項目
天井の蓮華
※参考文献
「法隆寺国宝展図録」 2008年 奈良国立博物館