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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/01/08

法隆寺 金堂


金堂の初層と二層の間にある支柱には龍が巻き付いている。これは江戸時代に補強のために加えられたもので、ずいぶん前に記事にしている。
金堂にも裳階があって、『日本古建築細部語彙』は、裳階の板葺屋根は大和葺、板扉は彫出しの連子窓をもつというが、板扉には注意していなかった😅

金堂の南北断面模型 昭和時代 1949年焼失以前 法隆寺蔵
『法隆寺金堂壁画と百済観音展図録』は、珍しい断面の模型であり、簡素にして力強い建築構造を一目で見渡すことができる。
金堂の内陣は巨大な厨子のようであり、それを守るようにして建築部材が組み上げられている様子がよくわかるという。
確かに基壇と折り上げのような天井の空間は厨子とも言えるかも知れない。
外からは二階建てに見える金堂だが、断面を見ると、2階には部屋はなさそうだ。
金堂の南北断面模型 法隆寺金堂壁画と百済観音展図録より

金堂にも裳階と初層の屋根の間に邪鬼がいるのだが、
北西の邪鬼は奇妙な装飾があって、それが何かの顔だろうかと思ったが、長い鼻と牙で象だと気が付いた。象に獅子のたてがみと耳、それに鋭い爪👀
反対側から見ると、象らしいが、尾が長い。見たことのないものをつくるのだから仕方がないけれど😉
南東の邪鬼は獅子で、雲肘木の浮彫がよく写っていた。
4本の通肘木に、雲肘木、尾垂木、雲斗のすっきりとした組物。深い軒を支える出梁出桁。
壊れているように見える風鐸、大きな舌には三葉文の透かし

上階も
通肘木や、雲斗、一軒の長い尾垂木、雲肘木で構成されている。高欄は卍崩し、その下には人字形割束があるのだろうが、近くから見上げたので見えていない。


金堂といえば仏像🤗
金堂内陣 仏像配置図  『法隆寺』より

四天王は「国宝法隆寺金堂展」(奈良博 2008)で間近で見ている。
詳しい記事を書いたと思っていたのに、こんなものしかなかったとは😆
法隆寺金堂 四天王像 『国宝法隆寺展』ちらしより

『法隆寺』は、凜とした空気に包まれた金堂内陣。仕切りはないが天井から吊り下げられた、天人と鳳凰が飛び交う豪華な天蓋が空間を3つに分けているという。
確か、東の間の天蓋は鎌倉時代に造られたのだったと思う。
BSフジの「令和の法隆寺」(2020年12月27日放送、初回は1月4日)で鈴木嘉吉氏は、2008年の修復の時に、東の間の天井の木材のうち、薬師如来の頭上に小さな2つの環があることに気づいた。それで当初は木製ではなく、もっと軽い天蓋が掛かっていただろうと推測した。
『資材帳』に、仁王会が開催された693年に持統天皇より紫の天蓋が下賜されたことが記されていたことから、その紫色の天蓋がこれに当たるだろう。色が指定されるということは、布製だったのではと述べられていた。
法隆寺金堂内陣 『法隆寺金堂壁画と百済観音両像展図録』より

東の間
『法隆寺』は、向かって右の天蓋に覆われるのは東の間で金銅薬師如来坐像。聖徳太子の父用明天皇のために造られたと伝えるという。
法隆寺金堂東の間 『国宝法隆寺金堂展図録』より

『古代寺院』は、法隆寺(斑鳩寺)は、金堂東の間の薬師如来像の光背銘によれば、用明天皇の遺志をつぎ、推古天皇と聖徳太子(厩戸王)が607年(推古15)に薬師を造立し、創建したとされる。
銘記については、鋳造鍍金の後に刻まれたと判断されているが、それが像の制作と同時か否かは不明であるという。
裳懸座は中の間の釈迦如来坐像とよく似ている。
金堂東の間 薬師如来坐像 国宝法隆寺金堂展図録より

同書は、実際の制作年代については、銘記の撰文の時期に関する諸説に連動し、かつ670年の法隆寺火災を基準として、それ以降の現伽藍造営期の作との見方が多い。しかしながら、法隆寺伝来の戌子年(628)銘釈迦三尊像、法隆寺献納宝物149号仏立像など、釈迦三尊に作風が近く止利派の作と称される作例にくらべると、必ずしもそれらより柔和な表現とは言えず、むしろ薬師は面貌、衣褶表現とも釈迦三尊に最も近似している(大西、1990)。加えて、薬師は耳の形も釈迦三尊に近いことが注目され、薬師の制作年代は7世紀前半、釈迦三尊に近接した時期とみるのが妥当ではないだろうかという。
残念ながら、薬師如来の耳が見える図版はなかった😑
金堂東の間 薬師如来坐像 国宝法隆寺金堂展図録より

中の間
天蓋の下には釈迦三尊像、その両側に毘沙門天像と吉祥天像が安置されている。
金堂中の間 釈迦三尊像 国宝法隆寺展図録より

釈迦三尊像 戌子年(628)
『法隆寺』は、台座は「宣」という字の形をした木造の二重宣字形須弥座である。その須弥座上に大きな舟形の大光背を背にした一光三尊の形式をとる。光背の裏面に刻まれた銘文には、辛巳(推古29年 621)12月、太子の母である間人皇后が崩かられ、明年の正月、太子と妃が病気になられたため、太子と等身の像を造り、その願力によって「転病延寿」を願う。もしも薨去されてしまったならば、浄土に昇り早く妙果に到達されることを願うとする。そして推古30年2月21日に膳妃、2月22日に太子が薨去された後、癸未(推古31年 623)に鞍作止利によって完成をみたことなどが記されているという。

法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録は、中尊釈迦如来像は台座に懸裳を垂す二等辺三角形の中に納まる姿で、衣の襞は 左右相称形に近く畳み込まれる。その様式は北魏末から東西魏の仏像を基本としそれが朝鮮半島を経由してわが国に伝わったものであるが大陸・半島の直模では なく、日本独自の審美感が加味されていることは注目すべきであろうという。
金堂中の間 釈迦如来坐像 法隆寺 日本仏教の黎明展図録より

吉祥天及び毘沙門天立像
『国宝法隆寺金堂展図録』は、金堂中の間の釈迦三尊像の左右に安置される一対の像。年来吉祥悔過会を、他寺の例に準じて金堂で修しうるようにするための造像であり、『金光明最勝王経』の「四天王護国品」に、仏の左辺に吉祥天女像、右辺に多聞天(毘沙門天)像を作る、と説くのに基づいて、釈迦三尊像にこの二像を造り加え、吉祥悔過会の本尊としたものと考えられる。
いずれも檜材の割矧造で、表面には切金を交えた華麗な彩色を施している。浅く穏やかな彫法や簡略な面のとり方は、定朝による和様成立後の造像であることを肯首させるが、量感を残した重厚な体軀と直立に近い姿勢、あるいは彩色主体の文様の趣などに、同時期の京都の造像とは異なる、古風な伝統色が認められるのも見逃せない。
両像ともに表面は布貼した後に錆下地をし、彩色している。切金文様の使用は控えめであり、吉祥天は立涌文(腰帯)、衣の縁取りに限られているという。
平安後期の奈良仏師の仕事ということかな。
 
毘沙門天立像 平安時代、承暦2年(1078)
同書は、釈迦の左辺にある毘沙門天は、左手を逆手にして、戟の柄を抱え込むように握っている。右手は屈臂して塔を捧げ、それに視線を投げて、面を右方にやや傾け、腰をわずかに右に捻り、左足をやや前に踏み出して框座に立つという。
本当に動きの少ない毘沙門天である。今までに記事にした毘沙門天立像は、東寺の兜跋毘沙門天立像だけなので、多聞天立像を振り返っても、この時代のものはなかった。
検索してみると、京博浄瑠璃寺の毘沙門天立像で、やはり動きの少ない11世紀後半-1108年以前の多聞天立像を見つけた。その像は左手に塔を載せ、右手には剣を持っている。
金堂 毘沙門天立像 国宝法隆寺金堂展図録より

同書によると截金文様は、毘沙門天は七宝繋ぎ(肩布)、格子(胸甲)、袈裟襷格子文(鰭袖上部)ということだがそれを認められるくらいの画像はなく、腹部から脚部にかけて残る金色は金泥なのだろうか。
金堂 毘沙門天立像部分 国宝法隆寺金堂展図録より

力強いパルメット繋ぎ文には、各所に太い金箔が残っている。金泥には見えないが、截金でもなさそうなので、金箔を貼り付けているのだろう。
金堂 毘沙門天立像部分 国宝法隆寺金堂展図録より
金箔の面に黒で植物文様を描いたようにも見えるが、花のような模様の中にも金箔が残っていたりする。
金堂 毘沙門天立像部分 国宝法隆寺金堂展図録より

下半身の方が華麗だ。
金堂 毘沙門天立像部分 国宝法隆寺金堂展図録より

朱色で描かれた暈繝彩色の宝相華文の縁飾りに、金色の宝相華文が入り込む。
金堂 毘沙門天立像部分 国宝法隆寺金堂展図録より

脚絆の団花文にも、金箔の残っている箇所もある。
同書は、大ぶりの団花文は箔押の上に文様の輪郭を塗り残すように彩色している。同時代の京都の彩色に比べて古風であり、堅実な趣があり、奈良様の伝統を伝えているという。
箔押しと彩色だった。
金堂 毘沙門天立像部分 国宝法隆寺金堂展図録より

吉祥天立像 同年
『国宝法隆寺金堂展図録』は、吉祥天像は、左手を屈臂し、手に蓮台付き火焔宝珠を載せ、右手は臂を軽く曲げている。これに似た印相は逆手にはなるが、東大寺法華堂塑造吉祥天像がある。
両像ともに肉取りが豊かで、穏やかな面相であるものの、毘沙門天像ではそれが引き締まって、目鼻立ちに生彩を加え、吉祥天像ではふくよかな目鼻立ちで、華やかな表情を著している。二天像の性格の違いが平安後期の温和な造形感覚を通して見事に対比されるこの造形の妙は、作家の優れた力量を表出しているといってよいだろうという。
金堂 吉祥天立像 国宝法隆寺金堂展図録より

目立たないが、胸元は瓔珞(おそらく金銅とガラス玉)で荘厳されている。
金堂 吉祥天立像 法隆寺金堂壁画と百済観音展図録より

また、截金は立涌文(腰帯)に限られているという。
区画線や三点文も截金に見えるのだが🤨
金堂 吉祥天立像 法隆寺金堂壁画と百済観音展図録より

背面にも金色が。
金堂 吉祥天立像部分 国宝法隆寺金堂展図録より

この中心の四弁花文の周囲にいろんな文様が描かれたものも、箔押しの上に彩色されたものなのだろう。
金堂 吉祥天立像部分 国宝法隆寺金堂展図録より

両像は、金堂内ではひときわ目立たないところに安置されているので、こんな風に色鮮やかなものだということは、特別展で博物館に展観される時にしかじっくり見ることができない。そして、図録には拡大した部分的な図版などがあると、後になっても参考になる。

西の間
法隆寺金堂西の間 国宝法隆寺金堂展図録より

阿弥陀如来坐像 鎌倉時代、寛喜3年(1231)
『法隆寺』は、西の間に安置された阿弥陀如来坐像。中世の伝承によれば、聖徳太子の母后穴穂部間人皇后のために造られたという。光背の背面に刻まれた銘文には、承徳年中(1097-99)に西の間の仏像が盗まれたため、寛喜3年(1231)に鋳造が始まり、翌年に開眼供養が行われたという造像の由来が記されているという。

『国宝法隆寺展図録』は、原型作者は法橋康勝、鋳造は銅工平国友であったことがわかる。銘記には阿弥陀如来とともに観音菩薩・勢至菩薩の両脇侍も鋳造されたことが見えるが、観音菩薩像は寺に残っていることが以前から知られており、勢至菩薩像はギメ美術館に現存することが近年明らかになったという。
金堂西の間 阿弥陀三尊像 国宝法隆寺金堂展図録より

『国宝法隆寺展図録』は、康勝は、鎌倉初期の著名な仏師運慶の四男と伝えられる仏師。
阿弥陀如来像は同じ金堂内に安置される飛鳥時代の釈迦三尊像や薬師如来像の形式を参考にして、また両脇侍像はある時期以降、薬師像の脇侍とされていた飛鳥後期の観音菩薩に範を求めて造られた模古作であるが、その現実的で親しみやすい造形には鎌倉彫刻の特色がよく表れているという。
金堂には、飛鳥・平安・鎌倉と、それぞれの特徴ある仏像が安置されている。残念なのは、暗くてよく見えないことだ。
金堂西の間 阿弥陀如来坐像 国宝法隆寺金堂展図録より

間人皇后と聖徳太子、妃膳部大郎女は太子町(大阪府)の叡福寺古墳に葬られているとされ、用明天皇陵もその周辺の磯長谷古墳群にある。

鐘楼
『法隆寺』は、中門から大講堂に連続する廻廊の東西に、扉を閉ざして静かに建つ2つの二階建ての楼閣。西側が経典をおさめる経蔵、東側が鐘楼。今も法要時には、上層に吊された梵鐘が白鳳の音色を響かせる。当初は大講堂とともに廻廊の外側に独立して建っていた。
鐘楼は延長3年(925)の大講堂の火災とともに焼失し、寛弘2年(1005)頃から再建されたと考えられているという。
昔は日々時を告げていただろうが、今では滅多に鳴らされないのか。白鳳の音色を聞いてみたいなあ😄

東回廊から鐘楼方向

胴張りのある円柱は、古代ギリシア神殿のエンタシスとは関係はない。『国宝法隆寺展図録』によると、柱の胴張は後漢の四川省楽山岩窟墓や北斉の河北省定興の石柱に類例があるらしい。
円柱が回廊の内側と外側に並び、その上部の皿斗、大斗の上に虹梁がかかる。『日本古建築細部語彙』は側桁としている。その上の三角に見えるものは扠首で、その上の組物(見えにくい)で天井の棟木の荷重を受けている。ということは、トラス構造のようなものが、この時代にあったのだ。
大きな連子窓が外壁にあけられているため、土壁の部分は少ない。
連子窓の隙間から見える紅葉を狙ってみたが😅

        法隆寺 五重塔まで←     →法隆寺 西院伽藍と若草伽藍

関連項目

参考サイト

参考文献
「日本古建築細部語彙 社寺篇」 綜芸舎編集部 1970年 綜芸舎
「法隆寺」くるみ企画室 2006年 法隆寺発行
「シリーズ古代史をひらく 古代寺院 新たに見えてきた生活と文化」 吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編 2019年 岩波書店
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録」 1994年 東京国立博物館・奈良国立博物館・法隆寺・NHK他
「国宝法隆寺金堂展図録」 奈良国立博物館・法隆寺・朝日新聞社 2008年 朝日新聞社
「法隆寺金堂壁画と百済観音展図録」 2020年 東京国立博物館・朝日新聞社・NHK他(編集とも)