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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/02/05

法隆寺大宝蔵院 百済観音像


大宝蔵院は塼が敷き詰められた中庭を囲む4つの棟からなっている。南棟は出入口で、まずは左手の東棟から仏像群を拝観していき、その突き当たりで玉虫厨子の四面を見た後は北棟へ。北棟の中央には宝形造の百済観音堂が造られている。そこには百済観音像だけがガラスケース内に安置されて、四方から眺めることができる。
百済観音は何度か拝見したが、その度に惹かれていく、不思議な仏像である。

百済観音 飛鳥時代 像高209.4㎝ 木造・彩色
『法隆寺』は、丸みをおびた全身からは柔和な優しさが漂う。頬の輪郭、やや小さめに浅く刻まれた口辺、眼と眉の間を少し広くした感じなどは女性的で温雅である。
頭・体部・足下の蓮肉部まで樟の一材からなり、面部から上半身にかけては、乾漆の盛り上げがほぼ全面に施されているという。
この手法は木心乾漆だろう。木心乾漆は脱活乾漆の後に造られるようになり、平安時代にはなくなった技法だと思っていた。
古都奈良の名刹寺院紹介、仏教文化財解説など木心乾漆のお話は、乾漆の厚みが薄いとはいえ乾漆を均一に塗らなければ干割れを起こすため容易な作業ではありませんでした。が、逆に「法隆寺百済観音像」は上半身に施された「木屎漆」が細かい干割れを起こして、その影響でお顔の表情が憂いを富んだ柔和な感じになっており、それが日本女性の感性を揺さぶってうっとりさせる原因となっておりますという。

『法隆寺』は、上半身の肉付け、棟や下腹部のかすかな盛り上がり、天衣の表面を側面へ向け鰭状の突起を前後にする表現、肩にかかる垂髪の側面へのひろがり、さらに宝珠形の光背を竹竿を模した支柱に取り付けるなど、側面からもみられることを意識している。また浅い彫りで表現された衣の重なりや裾の部分にみられる柔らかな布の感じは、飛鳥時代前期の木彫像である夢殿安置の救世観音が、深めの彫り口で正面性を基調としているのに比べ対照的であるという。
特に、正面では細くやや鰭状の天衣が、側面から見ると帯のような天衣が腕のはいごからゆるい曲線を描いて先が前方に向く。正面からは予測できない鋭さで、天衣は幾重にか折りたたまれて、下方で開きかげんで2つの端が開いているのだ。

『法隆寺 金堂壁画と百済観音展図録』(以下『金堂壁画と百済観音展図録』)で三田覚之氏が「百済観音像誕生の謎」で、この時にもよく見なかった、或いははっきりとは見えなかった百済観音の装身具の細部を、東京国立博物館(以下東博)の法隆寺献納宝物の灌頂幡との比較されている。

「百済観音像誕生の謎」は、百済観音の宝冠から垂れ下がった冠繒と灌頂幡天蓋の蛇舌上部に見られる唐草文様の共通性であるという。

冠繒とは冠から両脇に垂下する帯状のものである。

「百済観音像誕生の謎」は、その文様が灌頂幡天蓋の蛇舌上部の文様と共通性があるという。
法隆寺献納宝物灌頂幡図解 『法隆寺宝物館』より

「百済観音像誕生の謎」は、描き起こし図で比較したように、複雑な唐草の巻き込み方が両者で一致しているという。
灌頂幡天蓋と百済観音冠繒の唐草文様の類似点 法隆寺 百済観音展図録より

「百済観音像誕生の謎」は、この宝冠は明治44年(1911)に法隆寺内の土蔵から発見された。どこまでこの宝冠がオリジナルの状態を保っているかについては慎重を要するが、臂釧・碗釧とともに灌頂幡の意匠を共有していることから、改めて像本体と本来一具であることが確認できるだろう。
重要なのは、灌頂幡について資材帳に記されていることである。これにより具体的な日時は不明ながら、片岡御祖命という人物が灌頂幡を奉納したことがわかる。百済観音像もまた片岡御祖命の周辺で制作が進められ、同時期に法隆寺へ奉納された可能性がみえてくるという。
灌頂幡坪堺金具と百済観音の臂釧碗釧の類似点

「百済観音像誕生の謎」は、化仏を戴く宝冠は『観無量寿経』に由来する。同経には「その天冠の中に、一の立てる化仏あり」とあり、坐像と立像の違いはあるが、浄土思想にもとづく造形であることがわかる。
青い玉の付いた花形の鋲は後補であり、本来は簡素な銅鋲であったと考えられるという。
青い玉を見つけたと思っていたのに🤔
柔らかい笑みが口元にはあるが、全体の表情としては不可思議😮
眉から頰の膨らみなどの表現は救世観音よりも自然になっている。

「百済観音像誕生の謎」は、左手の水瓶だが、宮地治氏によると、水瓶は本来ブラフマー(梵天)の持物であり、修行に励む行者的な性格を象徴する。グプタ朝時代からポスト・グプタ朝時代(5世紀中頃-8世紀中頃)になると、西インドの後期石窟において、水瓶を執る観音菩薩が見られる。どこにでも赴き、救いを垂れる観音菩薩の性格により、行者の持物である水瓶が選ばれたのだろう。
水瓶を執る観音菩薩は、浄土からこの世に現れた姿を意味しているという。
水瓶を持っているかどうかを菩薩を見分ける目安としていたが、こんな風に観音菩薩が水瓶を持つようになった歴史があったとは🤗

「百済観音像誕生の謎」は、同経の「この宝手をもって、衆生を接引したもう」という文言からすれば、百済観音像の仰いだ右手は、衆生を救い取るかたちを示すと考えられる。
また、西村公朝氏は「現在は何も持っていませんが、掌には、何かを固定していた小さな枘穴があります。これはおそらく、如意宝珠をささげ持っていたのでしょう」と述べられており、修理技術者の貴重な証言として注目されるという。
百済観音はどんな如意宝珠を持っていたのだろう。救世観音の持つ火焔宝珠?左手の水瓶と同じく木製のものだったかも。

頭光は宝珠形
中心の八葉単弁蓮華文はふっくらとした花弁で、稜線が浮き出ているが柔らかな雰囲気。この蓮華が瓦から採用されてモティーフだとしても、型づくりの軒丸瓦の蓮華とは比べようもない。
その外側の幅の狭い区画には、おそらく五色だったと思われる線が配される。その外側の2つの区画の文様はよく分からない。
一番外は火焔文で、上へ上へと炎が昇っていくように、宝珠形の下の方に同心円文を置いていて素晴らしいデザイン😊

頭光の支柱
「百済観音像誕生の謎」は、竹を模した百済観音像の光背支柱には、その根元に4つの山岳が表されている。肥田路美氏が考察されたように、山岳はこの世の表象であり、山岳を伴った仏はこの世に現れた姿を示している。特に観音菩薩の場合は補陀洛山を意味する可能性があるだろう。像に対して小さすぎるようにも見えるが、『観無量寿経』は観音菩薩の身長を「80万億那由他由旬」としており、小さな山岳との対比において広大無辺な姿が強調されている。支柱自体が竹をかたどっているのも「材木は欝茂して地草は柔軟なり」(『華厳経』)という補陀洛山のイメージにもとづくと考えられるという。
竹のように節や皮を彫り出しているのに、最下部は山を表しているようで不思議だった👀
百済観音像頭光の支柱部分 法隆寺金堂壁画と百済観音展図録より

「百済観音像誕生の謎」で三田覚之氏は、様式的に見た百済観音像の制作年代はどうだろうか。百済観音像の造形をみると、法隆寺金堂本尊の釈迦如来像に代表されるような止利仏師の様式には属しておらず、側面鑑賞性や自然な肉取りにおいて進歩がみられる。このため、止利仏師を重用した蘇我氏が滅んだ後、大化以降から斑鳩寺火災以前あたりを想定するのが現在の基本的な見方と思う。およそ645年から670年が想定されているわけである。
灌頂幡と一具として制作された以上、百済観音像は当初より法隆寺に安置されていたのであり、江戸時代以来その存在が確認できる金堂内陣北側こそ、本来の安置場所として相応しいと。
金堂の建立以来、山背大兄王の追善像たる百済観音像が安置され、聖徳太子の追善像である釈迦如来像とともにあったと考えるが、果たしてそれが妥当な推定かどうか、古代史の大きな謎の前で、百済観音像は微笑みを湛えて立ち続けていると締めくくられている。

東廊を足早に進み、その南端の雲斗雲肘木などをゆっくりと鑑賞するひまもなく、4時半ぎりぎりで大宝蔵院を出た。
奈良時代の食堂と綱封蔵に光が当たり、桜の紅葉が朱塗りの木材と同じ色だった。

前にも拝観を終了したのは日暮れ時だったように思う。
法隆寺の有料区間から出てしまったとはいえ、日が沈んでしまわないかと心配で、足早に歩く。それは、藤ノ木古墳も見ておきたかったから😄 欲張り🦔
次に来る時はもっとゆとりを持って拝観できるように来よう、といつも思う😅


      法隆寺大宝蔵院 玉虫厨子←   →信貴山朝護孫子寺は夜に

関連項目
参考サイト

参考文献
「法隆寺」くるみ企画室 2006年 法隆寺発行
「法隆寺 金堂壁画と百済観音展図録」 東京国立博物館・朝日新聞社・NHK 2020年 朝日新聞社・NHK発行