お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/01/22

法隆寺東院夢殿 救世観音立像


西院伽藍を出て東院に向かう。
法隆寺西院伽藍から東院伽藍図 国宝法隆寺金堂展図録より

東大門 三間一戸 八脚門 切妻造 本瓦葺 奈良時代
『法隆寺』は、もとは現食堂の前方に南向きに建っていたが、平安時代に現在の位置に移され、東西に通り抜ける門となったと推測されている。
天井を見上げると、虹梁の上に蟇股がのり、その上に母屋桁が南北に通り垂木を受けている。中央の真の棟木と、この両脇の母屋桁(棟木)とを合わせた形式は三棟造といわれ、奈良時代の門の典型とされているという。
時間がなくなってきたので、構造を見上げる余裕がなかった😅

東大門の際から若草伽藍が見学できる時期があるらしいことが、検索していてわかった。
そのうちのだから歩いていくんだよ。のブログ法隆寺夏期大学 その6(若草伽藍現地説明)には、門際の木戸(右端にちょこっと見えます)が開いていたので入っていくと、説明も受けたというようなことが、写真と共に紹介されていた。

東院伽藍まではかなりの距離があるが、門越しに夢殿の大きな屋根が見えている。近づいていくと見えなくなった。
まだかまだかと焦っている目に飛び込んできたのは、南側の塀に並んだつっかい棒👀


西門は四脚門
門をくぐると連子窓が並ぶ回廊の西門、入口専用。

『法隆寺』は、推古9年(601)、斑鳩の地に聖徳太子の宮殿が建てられた。推古13年には飛鳥より斑鳩宮へ移り、仏教の研鑽に励まれた。
推古30年2月22日、この斑鳩で太子は薨去される。49歳だった。
皇極2年(643)、蘇我入鹿に攻められた山背大兄王をはじめとする上宮王家の一族は滅亡し、斑鳩宮は廃墟と化した。
その後、100年近い歳月が過ぎ、斑鳩宮の故地を訪れた行信は、その荒廃した姿を嘆き東院の建立を発願したというので、東院伽藍は奈良時代の創建である。
東院伽藍 法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録より

夢殿 八角円堂 一重 本瓦葺 天平11年(739) 
『古代寺院』によると、761年(天平宝子5)勘録の『法隆寺縁起并資材帳』(以下『東院資材帳』)には、737年に光明皇后と行信が経や鉄鉢を施入したとある。すなわち、『東院縁起』にみえる八角円堂の正堂(夢殿)もその頃の建立になり、創建とともに中央厨子内に観音菩薩像(救世観音)が安置されたに違いない。八角円堂には廟としての性格があり、夢殿は聖徳太子の霊廟として建立されたとみられるが、観音菩薩像は『東院資材帳』に「上宮王等身」記されるように、観音を聖徳太子と同体とみる信仰が萌芽していたと考えられる。
現在の建物は、寛喜2年(1230)の大修理により、屋根部分が改造されている。内外二重に八角の柱が8本ずつ立つ正規の八角円堂。屋根のいただきには、舎利塔をかたどった華麗な青銅製の宝形(露盤)が大空に身光を放つという。 

『国宝法隆寺展図録』で鈴木嘉吉氏は、八角円堂はもともと故人追善のための建築様式で、屋頂の「宝形」が舎利瓶を象った宝瓶・光明を飾る特異な形式であるのは、この堂の性格をよく表している。仏殿(夢殿)と講堂の間に宝蔵殿を置くのも異例で、救世観音を太子等身とする伝えのとおり、この伽藍が太子を祀る目的で建てられたことがわかる。天平創建当初は夢殿と伝法堂が瓦葺きであったほかは、南門、中門、回廊、宝蔵殿などがすべて掘立柱、桧皮葺の建物であった。これはおそらく太子の住まわれた宮殿への連想を意図したものであろうという。

ふと見上げると古そうな鬼瓦を見つけた。
一の鬼 仁平2年(1152)または永万元年(1165)の修理瓦 
『鬼瓦』は、法隆寺における最後の型づくりである。眉にはへらできざみ目、口端が下がり迫力に欠けるという。
でもこんな鬼瓦の方が和みます🤗 いや和んでいては邪気が忍び込み放題か😁
二の鬼の方が迫力があるが、時代が下がりそう。

別の棟の一の鬼2
型で造っていても、ヘラで仕上げるときに少しずつ変わってしまうものなのだ。
目力がある

一の鬼と二の鬼3
額には皺、牙が軒丸瓦を掴んでいる。

一の鬼と二の鬼4
盛り上がった眉が飛び出た目の庇となっている。

そして秋の特別公開中の救世観音立像
『古代寺院』は、夢殿本尊救世観音は、楠材製で、表面は金箔をはって金色相を表し、宝冠や装身具は銅板透かし彫りで、鍍金を施している。「上宮王等身」と言いながら、像高は宝冠を含めると190㎝以上と大きい。一方、『東院縁起』には太子が在世中に造立した像と伝えるが、確かにその大ぶりな目鼻立ちは釈迦三尊よりも飛鳥大仏に近く、釈迦三尊より先行する作例とみてよいと思われるという。
救世観音像は太子存命中に造られたとうことで良いのかな。

飛鳥大仏は『日本仏教史』によると、本尊となるべき銅造と刺繍の丈六仏(ともに左右脇侍をもつ三尊像)については『書紀』推古13年(605)条に、ようやく仏工の鞍作鳥により着手されたことを伝えている。その完成は『書紀』が翌14年、『元興寺縁起』所収「丈六光銘」は同17年(609)のこととし、一般には後者が正しいとされるという。
また、金堂の釈迦三尊像は推古31年(623)に鞍作止利が造っていることが光背の銘文に刻まれているので、救世観音は610年代に造られたのかも。
東院夢殿 救世観音立像 7世紀 『法隆寺』より

菩薩立像 百済(4世紀前半-660) 金銅製 新潟・関山神社蔵 
『古代寺院』は、救世観音像はその像容が新潟・関山神社に伝来する菩薩像に酷似することが指摘されている(久野 1973)。
救世観音の像高は関山神社像の10倍ほどになるが、長身で腰高なプロポーションのみならず、緩くS字を描く側面観、頭髪や衣の構成にいたるまでよく似ている。
関山神社像は精緻な出来映えに加え、錫と銅を1割近く含む青銅の組成や鉛の同位体比から百済からの渡来仏とみて間違いなく(藤岡 2014a)、救世観音がそうした渡来仏を手本としていることを物語っているという。 
三曲法の著しい菩薩像だが、肩には2つの蕨手があり、右側面が失われていなければ、控えめな鰭状の天衣という特徴ももっと分かり易かっただろう。
新潟・関山神社蔵 菩薩立像 『古代寺院』より

菩薩立像 宮城・船形山神社蔵
『古代寺院』は、渡来仏との類似という天衣点では、宮城・船形山神社(黒川郡大和町)の御神体として知られる菩薩像の天衣の形が救世観音にきわめて近いことも注目されるという。
鰭状の天衣という特徴がみごとに表されている菩薩立像である。救世観音像と同様に独立した像として造られたのだろう。
宮城・船形山神社蔵 菩薩立像 『古代寺院』より

『古代寺院』は、近年、棲霞山石窟千仏岩区の南朝の諸像は、表面を覆っていたモルタルが除去されて本来の面目を取り戻した。なかでも第22屈の脇侍菩薩は、腰高なプロポーション、複弁の反花を2段重ねる台座の形式など、救世観音像と共通の特徴をもち、あらためて救世観音が梁様式を源流とすることが明らかとなった。
救世観音は両手で腹前に宝珠をとる。梁と百済の菩薩像には両手で腹前に球状の持物をとる例が散見される(金 1990)。様式とともにこうした図像も梁代の仏像に由来し、それが百済を通じてもたらされたことがうかがえる。救世観音は天衣を背面で膝裏あたりまで長くU字形に垂らすが、こうした形式も百済の作例に見られることが指摘されているという。

棲霞山石窟千仏岩区の仏像は分からないので、梁朝の浮彫像を見てみると、

力士立像 梁(6世紀前半) 石造 浙江省紹興市 大仏寺千仏禅院
『世界美術大全集東洋編3』は、大仏寺の山門と隣接して、現在千仏禅院と呼ばれる小寺院があり、ここに自然洞窟を利用して開鑿した千仏造像がある。左右2つの区域からなり、向かって左側の大きな区域は、横長に全部で13の区画に分かれ、外側の一つにはそれぞれ蓮華座上に大きな頭光をつけ棒状の物を持つ力士像を浮彫りで表しているという。
仁王立ちしてはいるが、棒状の物がなければ菩薩に見える。X状に交差する天衣は両肩にかかり、背後から体側面に鰭状に広がっている。
浙江省紹興市 大仏寺千仏禅院 力士立像 梁朝 『世界美術大全集東洋編3』より

小金銅仏の作品では、

菩薩立像 北斉武平3年(572) 金銅 高さ20.5㎝
『中国の石仏展図録』は、幅広の魚鰭状天衣とX字状天衣を見せる。天衣の魚鰭状とX字状を組み合わせることは、わが国では法隆寺金堂釈迦如来の脇侍菩薩に初出し、それは北魏~東・西魏の影響であると言われるが、本国では北斉までも依然として行われていることが分かるという。

観音菩薩立像 北魏正光2年(498) 銅造鍍金 高さ27.5㎝ 河北省出土 静嘉堂文庫美術館蔵
『金銅仏東アジア仏教美術の精華展図録』は、重厚な着衣表現に重点を置いた北魏後期様式の典型的作例である。
光背はゆらめくような火焔・連珠文の縁取り・二重蓮弁を入れた頭光などの装飾意匠で充填される。蓮座は痩躯の像に対応するかのような鋭い複式蓮弁という。

観音菩薩諸尊立像 梁時代・中大同3年(太清2年、548) 砂岩、彩色 高43.6幅39.5奥行16.5 四川省成都市万仏寺址出土 四川省博物館蔵
『中国国宝展図録』は、万仏寺は成都市の西北にあった寺で、19世紀末から20世紀半ばにかけての数度にわたる調査で200余点の仏像が発見された。
銘に観音と記される中尊は、菩薩形ながら右手施無畏印、左手は瓔珞をつかみ、宝冠はターバン飾りとして、尊名を特定する標幟をとくに備えないという。
中尊の菩薩とその両脇侍菩薩ともに、鰭状の天衣である。三像ともに体を三曲に曲げているために、救世観音像に似ているようには思わなかったが、あらためて見ると確かに鰭状であるだけでなく、両脇侍が胸前で宝珠のようなものを両手で持っている点など、共通する特徴が多い。
今までは北朝の影響ばかりを追ってきたが、南朝の影響も受けていることをしっかり理解できた😎
四川省成都市万仏寺址出土観音菩薩諸尊立像 梁時代 『中国国宝展図録』より

『日本仏教美術史』は、平安時代以降、その御影(肖像)の救世観音と呼ばれたことがわかる。「救世観音」の呼称は経典に説かれず、「法華経観音菩薩普門品の「観音妙智力 能救世間苦」に由来して中国唐時代に流行した「救苦観音」が日本では救世観音となったとも推測されている。
宝冠が金銅製のほかは、本体・台座・光背とも楠製で、それぞれ白土地に金箔を押して仕上げている。本体は両手に持つ宝珠を含み台座まで一材から彫出し、体側に広がる鰭状天衣の先端部分に別材を矧ぐ。
正面観に明らかなそのプロポーションは絶妙なバランスを保ち、肩をひいて下腹部を少し突き出す「く」の字の側面観も、他の像の類型的なそれとは異なり、余分な力が抜けた自然な立ち姿を示す。左右対称に広がる天衣も斜め後方へ、実に伸びやかなカーヴを描くという。
東院夢殿 救世観音立像 7世紀 『太陽仏像仏画シリーズⅠ奈良』より

宝冠及び頭光
『古代寺院』は、救世観音の宝冠は中国由来の虁龍文系の唐草文が透かし彫りされるが、歩揺をつける点に古墳の副葬品との関連も認められる。法隆寺金堂釈迦三尊を作った止利仏師が「鞍(作)首 くらつくりのおびと」、すなわち馬具製作に携わる家系の出身であったことがあらためて想起されようという。

『日本仏教美術史』は、宝冠は大きな三山形を呈するもので、虺竜文系の唐草を主体とした透彫り文様をあらわし、頂上には釈迦三尊の脇侍と同じ三日月と宝珠の組み合せ文様をあしらう。
光背は宝珠形の頭光で、素弁8葉の蓮華文の周囲に虺竜文系の雲気唐草文帯、連珠文帯、半パルメットによる蓮華唐草文帯をめぐらし、周縁部はやはり虺竜文系の火焔文を表して頂上に宝塔形を配するという。
これだけ拡大しても、文様の細部はよく見えない。
しかし、頭光頂部には多宝如来が湧出させたという三柱九輪塔だった。
それについてはこちら

『建築を表現する展図録』は、空中に浮いた宝塔の中には多宝如来の舎利が納められており、中から多宝如来が釈迦の説法が真実であることを大音声で宣言した。その後、宝塔内に入った釈迦は十万世界から集まった諸仏や菩薩とともに多宝仏の分身を拝し、さらに、釈迦如来は多宝如来に座を与えられ並んで結跏趺坐し、ともに法華経を説いたという。
ここから二仏並坐像が生まれている。聖徳太子と等身の観音像ということで、聖徳太子を釈迦に見立てた像であることを宝塔は示しているのかも。
東院夢殿 救世観音立像 7世紀 『日本仏像美術史』より

救世観音のお顔
法隆寺東院 救世観音像 飛鳥時代(7世紀)  国宝法隆寺展図録より


『日本仏教美術史』は、頭髪は髻をあらわさず、左右振り分けの総髪として蕨手状の垂髪を肩に表す。上半身には僧祇支、下半身には裙を着けるとともに、両肩に天衣をまといその先端を鰭状とするという。
蕨手は曲線的だが、金属の道具のような硬い観じを受け、左右に広がる典型的な鰭状の先端は、上から下へと大きくなり、一番下のものは、曲がっているとはいえ、両刃の剣のよう。
東院夢殿 救世観音立像 7世紀 『日本仏像史』より

夢殿では前に台が置いてあるためこの前面が見えないので、斜め隅からのぞいてみると、膝下で交差する3本ずつの天衣の膨らみが、とても新鮮な発見だった。その上の結んだリボンも柔らかな素材をみごとに彫り出している。平面的な鰭状の衣端とはえらい違いや🤗
東院夢殿 救世観音立像 7世紀 『日本仏像美術史』より

救世観音を拝観した後は、北西側から外へ出るようになっている。その前に再び夢殿を眺めて、中門に素屋根が掛かっているのに気付いた。
屋根を修復中のよう。

北西から回廊の外へ出ると、目の前に立ち塞かっていたのは鐘楼😮

『法隆寺』は、下階の部分が、袴を穿いたようになった鐘楼を袴腰付鐘楼といい、中世以降に流行する。東院鐘楼は応保3年(1163)に建立したと考えられ、袴腰付鐘楼の最古例とされている。
現在の建物は鎌倉時代初期に再建に近い大修理をうけている。
なお、上階に吊された梵鐘は天平時代のもので、かつては中宮寺の鐘であったとされるという。


関連項目

参考文献
「法隆寺」くるみ企画室 2006年 法隆寺発行
「法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録」 1994年 東京国立博物館・奈良国立博物館・法隆寺・NHK他
「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂
「日本仏教美術史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国国宝展図録」 東京国立博物館・朝日新聞社編集 2004年 朝日新聞社
「建築を表現する展図録」 2008年 奈良国立博物館