東院から西院へと急いで戻っていく。
西院伽藍の塀大宝蔵院について『法隆寺』は、平成10年(1998)10月22日。多くの人々の結縁によって「大宝蔵院・百済観音堂」が落慶。7世紀後半の伽藍様式を伝える建物には、安住を得た百済観音をはじめ、玉虫厨子などの寺宝が多数おさめられているという。
残り時間がどんどんなくなっていくので、建物を写す余裕はなかった。
『法隆寺』は、玉虫厨子は飛鳥時代の建築・工芸・絵画・彫刻などの技術による総合芸術である。低平な台脚と腰高の宣字形台座須弥座で構成された台座の上に宮殿部が置かれる。錣葺の屋根、軒回りの組み物などは写実的に仏殿の姿をかたちどり、細部まで丁寧に造られているという。
大宝蔵院では六観音像などを大急ぎで見て、展示室の角にガラスケースに入った玉虫厨子を眺める。
玉虫厨子 飛鳥時代(7世紀) 木製、黒漆塗、漆絵、密陀絵、金銅装 総高226.6㎝
『法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録』(以下 『黎明展図録』)は、腰高の宣字形台座に入母屋造の屋根をいただく宮殿を置く形式の木製黒漆塗の厨子。宮殿部に打たれた金銅透彫金具の下に無数の玉虫のはねを敷くため、この名がある。
台座は持ち送りを表した四脚を有し、その上に三重の框を載せている。三段目の框の上に反花を置き、その上に箱形の台座腰部を据えているという。
台座腰部は須弥座とも呼ばれている。
『法隆寺』は、宮殿部の正面扉には二天像、側面扉には二菩薩像、背面には釈迦の霊鷲山説法図を描くという。
宮殿部 正面扉 二天像
左天王像は顔もよく残っていて、威嚇するような表情は見られない。二天共に中央を向いて身を屈している。その頭光や、頭部の翻る紐状のもの、両端の細い木の捻れる表現などは、かなりこなれた技量を示している。
法隆寺大宝蔵院蔵玉虫厨子宮殿部正面 二天像 国宝法隆寺展図録より |
側面 二菩薩像
どちらも三面頭飾をつけて、それを結わえた紐の端が翻っている。左の菩薩は右手で、右の菩薩は左手で、それぞれ長い茎の蓮華を持つ。
やはり両端には細い植物が描かれているが、蓮華でも唐草文様でもない。
背面 霊鷲山説法図
どの図録を探しても、宮殿部背面の図版だけはない😑
検索してみると、奈良国立博物館の収蔵品データベースに、模造の玉虫厨子があり、その中で、霊鷲山説法図の画像を拡大してみると、中程にC字を反転させたような窟があり、そさこで瞑想する比丘と、水瓶が描かれていた。
『金堂壁画と百済観音展図録』は、宮地治氏によると、水瓶は本来ブラフマー(梵天)の持物であり、修行に励む行者的な性格を象徴する。グプタ朝時代からポスト・グプタ朝時代(5世紀中頃-8世紀中頃)になると、西インドの後期石窟において、水瓶を執る観音菩薩が見られる。どこにでも赴き、救いを垂れる観音菩薩の性格により、行者の持物である水瓶が選ばれたのだろう。
禅定の比丘形には傍らに水瓶があり、行者の持物という性格を確認できるという。
『法隆寺』は、鎌倉時代の寺僧顕真が著した『聖徳太子伝私記』に詳しい記述がある。そこには推古天皇の御厨子で、唐草文様を透かし彫りした銅板の下に玉虫の翅が貼られていること。橘寺の衰退にともなって法隆寺へ移入され、金堂に安置されていたという。
大宝蔵院では照明を落としてあるため、こんなにたくさん玉虫のはねが残っているのには気付かない。それとも加齢によるものか😥
大宝蔵院蔵玉虫厨子部分 飛鳥時代 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より |
『黎明展図録』は、框の側面、腰部の四隅、宮殿部の基壇、柱や長押、軒下組物などに金銅透彫金具が打たれている。このうち、宮殿部の金具には下に玉虫のはねが敷かれており、かつては青や緑に発色するはねと金色の対比の妙が目に鮮やかであったことであろう。
金具の文様は唐草文様が主流であるが、猪目透かしのある火焔宝珠形を随所に表す点に特徴がある。この火焔宝珠文は腰部の四隅金具では主文として用いられ、内側の火焔宝珠を外側の大きな火焔宝珠が包み込む構成となっているという。
玉虫厨子部分 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より |
金堂透彫金具 百済時代(6-7世紀) 韓国・扶余陵山里中塚出土 韓国国立博物館蔵
『黎明展図録』は、猪目透かしのある火焔宝珠の上に山形の火焔を重ねており、玉虫厨子金具の祖形と見なすことができよう。玉虫厨子の造立に朝鮮半島からの帰化人が関わったことがうかがえる。
猪目透かしのある宝珠文様は金堂四天王像の宝冠にも見え、この像が7世紀半ばの作と推定されていることも厨子の年代を知る手掛かりとなろうという。
韓国国立博物館蔵金堂透彫金具 百済時代(6-7世紀) 日本仏教美術の黎明展図録より |
『黎明展図録』は、腰部の上に蓮華座、三段の框を重ね、その上に宮殿部を載せている。宮殿部は格狭間のある低い基壇にのり、正面と両側面の三方に観音開き扉を有する。屋根は入母屋造であるが、軒まわりの屋根と切妻を別々に作る錣葺きであり、甍に鴟尾をいただく。軒下には雲形肘木が取り付くが、これは中心より放射状に広がるように配されているという。
玉虫厨子部分 飛鳥時代 『法隆寺』より |
『黎明展図録』は、錣葺は天寿国繍帳の鐘楼などにも見え、法隆寺金堂よりも古い形式とされるという。
天寿国繍帳の鐘楼部分 飛鳥時代(7世紀) 奈良 中宮寺蔵
屋根の傾斜が途中で変わっているものを錣葺というようだ。鐘楼というよりも、鐘撞き堂の方が相応しい建物である。
宮殿部扉の内側の千体仏
『法隆寺』は、宮殿部の内側には一万三千の千体仏が打ち出された銅板が貼られ、古い記録では中央に釈迦像が安置されていたということ。また、この時には、金銅阿弥陀三尊像が安置されていたが、盗人に盗られたことなどが記されている。現在は白鳳期の金銅菩薩立像が安置されているという。『法隆寺』は、厨子各面に描かれたこれらの絵には、全体的にみて中国的要素が強く、背景の風景や、ところどころに描かれた天人や動物などに神仙的な雰囲気がうかがえるという。
須弥座正面 舎利供養図
舎利は下の容器に入れられ、向かい合う2人の僧侶が香炉で香を焚き、供養していると、その行いを賛美する天人たちが上空に現れた。
須弥座背面 須弥山世界図
中央に高い峰のある須弥山世界が表されているが、細かいところが何を描いているのかがよく見えない。上方左に三足烏のいる太陽、右に月が描かれていることや建物が描かれていることくらい。
月の中にいるのはウサギだろうか。天寿国繍帳に描かれた月には、壺を中央につねウサギと木が描かれているので、似たようなモティーフが配されているのではないだろうか。
須弥座左側面 施身聞偈図
『法隆寺』は、左側面には『大般涅槃経』「聖行品」による「施身聞偈図」が、油性の含まれた顔料や漆および墨で描かれている。
雪山童子が食人鬼である羅刹から「諸行無常 是生滅法」の偈を聞き、後半の「生滅滅已 寂滅為楽」の偈を教えてもらう代償として、自己の肉身を与えるため岩頭から身を投げると、羅刹はその本性である帝釈天となって空中で受け止めたという説話という。
須弥座右側面 捨身飼虎図
『法隆寺』は、側面に描かれた絵画は、釈尊の前世の菩薩行をあらわす仏教説話で、向かって右側面に『金光明経』「捨身品」による「捨身飼虎図」。摩訶薩埵王子が山中竹林の七仔を連れた餓虎を哀れみ、崖から飛び降りて自己の肉身を喰わせたという説話という。
暗くて下の方は見にくいなあと思っていたが、薩埵王子や虎たちの前に竹林が描かれていて、はっきりとは見せない工夫がしてあったのだ。
このような生々しい場面のある本生譚は、インドでは生まれず、ガンダーラで作られたというのを何かの本で読んだことがある。
玉虫厨子須弥座右側面 捨身飼虎図 法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録より |
『国宝法隆寺展図録』は、上框下方の反花に、菱形の切金文の痕跡も確認され、わが国最古の切金遺品として注目されたというが、気がつかなかった。次回こそは突き止めよう🧐