ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2006/10/03
法隆寺金堂天蓋から5 日本では
日本で法隆寺金堂天蓋の図様に近いものを探すと、法隆寺に「橘夫人厨子」と呼ばれる、光明皇后の母橘夫人三千代の念持仏と伝えられる阿弥陀三尊像が収められた厨子があった。
厨子の中に生えた蓮華に坐す阿弥陀三尊像は知っていたし、蓮華が出てくる台盤に表されている蓮池も興味深く観たことがある。それは1994年に法隆寺昭和資財帳調査完成を記念して奈良国立博物館で開催された『国宝法隆寺展』のことだったが、この時は厨子の上部をじっくりと観察した記憶がない。
また『法隆寺展』「黎明期法隆寺の美術」で鷲塚泰光氏は、この厨子は主体部に扉が填込まれ宮殿形とされているが、主体部を支える地板上の痕跡を子細に観察すると、元は二段の吹返し板を持つ屋蓋部は四本の柱に支えられる吹放ち式と考えられ、飛天・鳳凰・飾金具等の存在は認められないが、金堂天蓋に倣う中国石窟の荘厳具としての系統を引くものであることは間違いなかろうという。
以上から橘夫人厨子の製作時期は法隆寺金堂天蓋より後ということになる。 現存していないのが残念だが、7世紀後半に法隆寺金堂が再建されたころには存在していた、厨子のようなもの、あるいは法隆寺金堂が焼失した時に焼け残った天蓋の一部などの図様を、金堂再建時に、天蓋に忠実に再現したと想像しても良いのではないか?
書籍をあまり持たない私にとって、時にはインターネットは私の本棚の役目を果たす。東京国立博物館文化財部保存修復課環境保存室室長で文学博士の沢田むつ代氏の“法隆寺の染織品” 繊維学会誌, Vol.59, No. 11, pp.P389-P393 (2003年) という論文を開くことができた。「5法隆寺裂の種類と用途」より以下の文を参照させて頂く。
5.4天蓋など
絹傘と呼ばれるほぼ方形の蓋が伝えられてる。この絹傘は、平絹を3枚縫い合わせた残欠で、中央には円形の孔を穿つ。四隅に方形の別裂をあてていたようであるが、裂は現在ほとんど遺っておらず、ただ痕跡をとどめるにすぎない。孔を開け、四隅に別裂を縫っている仕様などから、もとは天蓋の上部の蓋に使われたと推測される。献納宝物の金銅製になる灌頂幡は、方形の傘状天蓋の中央より6坪の大幡を懸吊し、蓋の四周には、舌状の垂飾を飾る。さらに、蓋の四隅に小幡を各1流ずつ懸けた豪華なつくりになる。この灌頂幡が『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』に記された「金埿銅灌頂壱具」に比定されていること、正倉院の天蓋の例からして、おそらく、この絹傘と呼ばれている蓋は、もとは四周に垂飾を飾っていたことであろう。この垂飾のみの残欠(織物天蓋残欠)が献納宝物にあり、襞状の垂帳と逆三角形の蛇舌と呼ばれる飾りが遺っている。この織物天蓋残欠の垂飾と類似した仕様の天蓋が、法隆寺の金堂内陣に安置された、本尊の頭上を飾る天板などに描かれた天蓋に認められる。なお、正倉院の天蓋となると、垂飾の仕様と形が法隆寺のそれとは変わってくることから、織物天蓋残欠は部分しか遺っていないが、天蓋の古い形式を知るうえで重要である。ちなみに、正倉院の天蓋の垂飾は、緩いカーブを描いた舌状と、小札状の2種類の垂飾が用いられており、襞状の垂帳は姿を消している。他の資料を総合することによって、法隆寺の天蓋の全容が推定できる。
これでは天蓋先か垂飾が先かわからないが、龍門石窟賓陽中洞の窟頂に浮彫された小札形垂幕と三角形垂幕の組合せ装飾は、鮮卑族のフェルト製テントの内側を飾っていた装飾であった可能性があると、布状のアップリケのようなものがひらひらと垂れていたのではないかという私の想像も、当たらずとも遠からずなのかも知れない。
関連項目
蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子
天井の蓮華
※参考文献
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「国宝法隆寺展図録」 1996年 奈良国立博物館