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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2020/12/25

磯長谷古墳群


聖徳太子の墓とされている叡福寺古墳を見学したのち、磯長谷古墳群へ。
『王陵の谷・磯長谷古墳群』は、二上山西麓の竹内街道に沿った太子町には、南北2㎞、東西2.7㎞の範囲に敏達・用明・推古・孝徳の4天皇陵と聖徳太子墓のいわゆる梅鉢御陵を中心に、前方後円墳1、前方後方墳1、方形墳5基以上を含む約30基の古墳が群集しており、磯長谷古墳群と呼ばれていますという。
かなり以前に道路地図で小野妹子の墓を見つけたが、こんなに多くの古墳があるところだとは。

叡福寺古墳 敏達天皇陵 用明天皇陵 推古天皇陵 二子塚古墳 小野妹子墓 蘇我馬子墓 孝徳天皇陵 
太子町磯長谷古墳群 『王陵の谷・磯長谷古墳群』より

敏達天皇陵
同書は、敏達天皇は欽明天皇の皇子であり、父帝についで572年第30代天皇に即位されました。
『日本書紀』は、崇峻天皇4年の条に、敏達天皇が先になくなられていた生母の石姫皇后の墓に追葬されたと記録しています。
墳丘の形式は太子町ではただ一つの前方後円墳で、その規模は全長113m、前方部巾67m、後円部径58mあります。2段造りでくびれ部に造り出しを有し、周囲にからぼりをめぐらしています。天皇陵としては最後の前方後円墳にあたります。
この御陵に接した周囲の一部に円筒埴輪片が散在することから、封土に埴輪を表飾していたと思われます。
本墳の規模・構造は明らかに中期古墳の特色を示し、しかも埴輪は畿内においては一般的に6世紀初頭までしか使用されていなかったことなどから、本墳を「6世紀末になくなられた敏達天皇の陵とするには無理がある」とする考えです。これに対しては本墳が当初天皇の母の石姫皇后陵として敏達没年より先に築造されているから敏達陵であることと矛盾しないとする反論もありますという。
叡福寺古墳に次いで、敏達天皇陵も本人の陵ではなそうだ。

この道だろうと坂を上っていたが見つからないので、一度引き返して誰かに尋ねてみようと引き返した。人通りもないので町工場の中に入って行くと、やっと人がいた。
敏達天皇陵はどう行けば良いのでしょう?
ああ、びだっつぁん?
その人は、古くからの知り合いをよくぞ訪ねてきてくれたといった喜びようで、満面の笑みを浮かべ、汗をふきふき、
この坂を上り切ったその先にありますわ
我々の判断は間違っていなかったのだった。しかしそれよりも、近隣の人たちに「びだっつぁん」と親しみを込めて呼ばれるくらいに、忘れ去られることなく伝え継がれてきたことが嬉しかった。
イノシシが出ますから、気をつけて行ってくださいよ
でも、最後の言葉が心配😆

坂道を先ほど歩いた少し先に道標があった。それからしばらくして、広い舗装されてはいるが、鎖で車は中に入れないところがあって、
さきほどの道が右に折れるところにこんな道標が。
徒歩で古墳巡りをする人たちには分かり易い道標かも知れないが、車で行くとこの道標とは反対方向から歩くことになったので、分かりにくかった。
奥の石碑には敏達天皇陵河内磯長中尾陵と刻まれていた。
そして参道の手前には「この付近、イノシシが出没します。十分ご注意下さい!!」という注意書き。やっぱり出るんや~😱
陵への参道は整備されているので歩きやすいが、
イノシシの新しい足跡も確かにある~😨
この林の中に入っても大丈夫?
前方部に築かれた礼拝所が見えてきた。
礼拝所の前まできても前方部の盛り上がりはうかがえない。
イノシシが恐いので、少し脇に回ったところで退散😳
参道の西側はみかん畑になっていて、落ちた実もあったが、イノシシが食べに来た気配はない。この柵の効果だろう。

用明天皇陵
同書は、敏達天皇がなくなられて後、その弟が585年、第31代用明天皇として即位します。用明天皇は蘇我系(欽明天皇の第4皇子で、母は蘇我稲目の女・堅塩姫)の天皇であり、又聖徳太子の父帝でもあります。天皇の治世には、蘇我・物部の両豪族の対立がますます険悪化します。天皇はわずか2年で病没され、奈良県の磐余の池上の陵に葬られますが、のち『日本書紀』は推古天皇元年の条に「橘の豊目の天皇(用明天皇のこと)を河内の磯長の陵に改め葬りまつりき」と記録しています。
一辺が正しく南北線にそうように築造された方形墳であり、周囲に空ぼりをめぐらしています。墳丘の規模は東西65m、南北60m、高さ10mで、濠外堤を含めると、東西100m、南北90mに達する大方墳ですが、埴輪はありません。この規模・構造は蘇我馬子の墓とも考えられる大和の石舞台古墳と著しく類似し、おそらく同一プランによって築造されたと思われます。内部のようすについては全くわかりませんが、地元の吉村久平氏宅に保存されています。先述の石舞台古墳との類似から考え、おそらく内部主体も石舞台古墳クラスの大規模な横穴式石室と思われます。
いずれにしろ天皇陵としては最初の方墳であり、このあたりにも当時の大陸文化の影響のあとをみることができますという。
石舞台古墳の記事はこちら
用明天皇陵古図  『王陵の谷・磯長谷古墳群』より

木々の幹の間から墳丘を確認。
敷地は北に続き、それに沿って細長い駐車場がある。
墳丘は柔らかな土の斜面
南東の角に用明天皇陵を示す石碑
今は立ち入ることが禁止されているが、以前は歩けたみたい。
その先の生け垣と墳墓の間に空堀があるので、そこまでくらいは見られたのだ。
礼拝所からは何もうかがえない。

推古天皇陵
同書は、用明天皇のあとをついだ崇峻天皇の5年、先に物部氏を滅ぼし強大化していた蘇我馬子は、ついに東漢直駒をして崇峻天皇をも殺害します。そのあと欽明天皇の皇女で敏達天皇の皇后、用明天皇の同母妹の豊御食炊屋姫が、第33代推古天皇として593年に即位します。
天皇は飛鳥の豊浦に宮をおかれましたが、その治世である6世紀末~7世紀初頭は推古天皇と聖徳太子・大臣の蘇我馬子らによって新しい政治がおしすすめられ、中国の隋との交流も行われ、積極的に大陸文化が摂取されるなど飛鳥時代の中心を成しています。
天皇は在位36年、75才でなくなられますが、それに先だち『日本書紀』に、推古天皇を先になくなられた御子の竹田皇子の陵に追葬するとしていますが、その場所については記録していません。それについて『古事記』は「御陵在大野岡上。後遷科長大陵也」と記録していますという。

実は、ナビに従って狭い道を遠回りすることになってしまったので、結果としては駐車場から礼拝所へと歩いただけでは見えなかった墳墓の側面を見ることができた。

北東側より撮影。こんもりとした森
同書は、この合葬墓と伝える御陵は、太子町大字山田の南端にあり、3段造りの整然とした方墳で、一辺がちょうど南北線にそうように築造されています。陵は東西59m、南北55m、高さ11mあり、更に墳丘南部の前庭部状の地を含めると東西75m、南北72mに達します。しかし江戸時代に大修築が行われ、かなり原形がそこなわれたといわれています。更に墳丘について実測図をもとに詳細に調べてみると、空ぼりを除く平面プランは用明陵とまったく同一に築かれています。前庭の有無の相違は、おそらく江戸以降における墳丘修築の際、もとより整った方墳の用明陵の平面をもとに推古陵の修築が成された結果で、その最下段の平面は決して原形を伝えるものではないと考えられますという。
北側より撮影
同書は、墳丘の3段目は南北辺25mに対して東西は34mという東西に長い長方形で相当急傾斜をもって築造されているため封土は貼石で保護されていますが、埴輪はないといわれています。
末永雅雄博士は、本墳3段目が長方形を呈するのは墳丘に2石室を並べて築造しているためと説かれています。
かつては横穴式石室が開口し、内部に2つの石棺があったとしていますが、この2石棺があるか否か、又石棺の形式については、今はたしかめようもありませんという。
しかしながら、『王陵の谷・磯長谷古墳群』には石棺の写真があった。
縄掛突起はありそうにないが、短側辺に切込のようなものがある。ちょっと変わった蓋石だったのかな。
推古天皇陵出土石棺  『王陵の谷・磯長谷古墳群』より

やっと見つけた広い駐車場は西側を道路に面していた。参道はかなりの傾斜があり、民家に沿って上っていくと、
古墳の南西角に石垣があったが、江戸時代にしては積み方が原始的だし、野面積でもない🤔
礼拝所へ
礼拝所の階段を上がっても
墳丘は見えないが、
色づいた木々の丘が2つ並んでいるので、次に行く二子塚古墳がよく見えた。

二子塚古墳
『王陵の谷・磯長谷古墳群』は、推古天皇陵の東方約200mの地点にある二子塚古墳は、隣接する推古天皇陵よりやや高い位置にあり、その名が示すように2個の墳丘が連なった形で築造されています。大正4年、両墳丘にそれぞれ石室と石棺が発見されましたが、既に古く盗掘されていたため、羽釜形土器、小皿形土器、鉄釘の他、遺物はありませんでしたという。
東墳丘はかなり墳丘が破壊されているようで、
西墳丘もひどい状態゛が、東墳丘よりも大きく見える。
同書は、古墳の外形は、2つの墳丘がつながっており、一部が著しく採土され原形もかなりそこなわれていますが、方墳が2つ連接された双子墳という特異な形式をもっています。規模は全長61m、幅23m、高さは東墳丘4.6m、西墳丘6.0mでそのほとんどが盛土をもって築かれています。採土のためにくずれた部分からみて、葺石や埴輪はないと思われますという。

しかし、2017年2月11日に行われた、太子町教育委員会生涯学習課の「国指定史跡二子塚古墳 現地説明会」のチラシには、
今回の調査で、墳丘形状を示す周囲の壇や墳丘上の貼石を発見し、東石室内では壁面に塗られた漆喰の一部を改めて確認しました。
①北側の墳丘裾から1.5m幅の平坦面を発見したことで、周囲にテラス状の壇が巡る可能性のあることが分かりました。
②墳丘上で敷石および貼石を発見し、東西墳丘共に墳頂の一部が築造当時の旧状を残していることが分かりました。
③石室内で側壁の隙間や表面の漆喰の残存状況から、玄室内全面に漆喰を塗っていた可能性のあることが分かりました。
という文があった。敷石や貼石は、葺石ということだろう。

『王陵の谷・磯長谷古墳群』は、従来の大型石室にみられるような1石室に2棺以上おさめる合葬が、石室規模の面から困難であったとすれば、既に築造された当時流行の方墳に接して、外形・内部構造の全く一致する墳墓を新たに隣接して築くことによって合葬の目的を達した特殊な合葬墳-おそらく東墳丘が先に築造され、のちにそれに接し西墳丘がつくられた-として双方墳が成立し、内部まで等しい墳墓ができたと考えられますという。
磯長谷古墳群二子塚古墳実測図 『王陵の谷・磯長谷古墳群』より

とても参道とは思えないが、
上まで行くと東墳丘と、右向こうに推古天皇陵とが見えた。
採土のため、方墳にも見えなかったが、
説明パネルは、7世紀中頃の墳墓とされる二子塚古墳は、その名が示すように2個の墳丘が連なった形で、双方墳という特異な形式を持っている。
内部構造については、東西両墳丘ともにほぼ同形同大の石室と石棺を有し、石室は横穴式石室で南東に開口する。従来の古墳に比べて小型化した玄室に極めて短い羨道をもつという。
推古天皇両の方は南側面と東側面が見えていて、江戸時代の修築があったにしても、方墳であることがよくわかる。
東墳丘南側には石室の天井石?
石の下に土嚢を積んである。

『王陵の谷・磯長谷古墳群』は、その入口は埋葬後閉塞したと思われる人頭大の石をつみ重ねた状態が残っています。石室は花崗岩の天然石と、一部切石ともとれる石材で構築されていますが、注目すべきは側壁に生じた凹凸を均斉にするため、シックイを平面にぬるという百済墓制の影響を受けた進んだ手法を用いていることです。このシックイは現在、東石室西側壁の一部には全面塗抹したのか、石と石の間など一部分のみに塗られていたのかは確実には知り得ませんというが、2017年の発掘調査によって、玄室全面に漆喰が塗られていた可能性がでてきた。
また、この石棺にも縄掛突起はない。
二子塚古墳西墳丘内横穴式石室 北野耕平「河内二子塚調査概報」より

回り込むと、他の石も露出したり、板で内部に入れないようにしてあった。
大きな遺跡石は2つあり、その上下は土嚢だらけ。修復、あるいは復元中?
防水シートを剥がさないように気をつけて上っていくと、石室を見ることができた。石棺の小口側面には穴があいている。内部が見えないなと、上方を見ると、木の根っこががっしりと天井石を掴んでいた。

玄室の地面には礫が敷かれていたようだ。
同書は、羽釜形土器は、東石室の石棺前面に4個安置されていましたが、その形式から中世のもので、盗掘時期と関連すると考えられていますが、骨壺などとして使用された可能性もあり、とすれば墳墓の後世再利用の一例と考えることもできますという。
この天井石のないところは、その時までには外されていたのだ。

石棺の蓋も見えた。
同書は、東西両石室におさめられた石棺は前面に古くからの径30㎝ぐらいの盗掘孔があり、内部には遺物はすでになく、また朱の塗抹なども認められませんという。

石棺はその形式上家型石棺の系統に属していますが、もはや本来の家型石棺が持っている縄掛突起を全くもっていない退化した形式で、丁度棺蓋はカマボコ形をした、より時期の下るものです。
7世紀中頃の墳墓とされる松井塚古墳の石棺墓との類似や、シックイの使用等を合わせ考え、二子塚の築造年代を隣接する推古天皇陵と相前後する7世紀中頃とすることができますという。


東石室出土石板
くりくりと、浅浮彫で全面に渦巻のようなものが施されている。説明がないのが残念。
二子塚古墳東石室出土石板 『王陵の谷・磯長谷古墳群』より

その後整然と積んであった土嚢を崩さずに下りた。
後で行った竹内街道歴史資料館の人に尋ねると、雨水がかなり浸入したので、その水分を抜いているところです、とのこと。

さて、西墳丘はもっと崩壊がひどく、黒い防水シートが痛々しい。
その南側の状況。とても同形同大の石室があるようには見えない。
推古天皇陵からも見えていた箇所
同書は、いずれにしろ、両墳丘の被葬者は、生前極めて親近な関係にあったことはまちがいありません。この点などから、地元では古くから二子塚古墳をして、推古天皇と竹田皇子の合葬陵とする考えがあります。これは、双方墳成立の過程から考えても興味ありますが、推古陵の内部を知り得ない今、その当否はにわかに断じることはできませんという。
確かに、地元に生まれ育った若い人に訪ねると、我々は、この古墳こそ推古天皇と竹田皇子の合葬陵だと思っていますとのことだった。

小野妹子墓
坂道を登っていると、派手な幟のようなものが目に入った。墓地とは思えない。
いや、神社の七五三まいりのものだった。
『王陵の谷・磯長谷古墳群』は、太子町山田の東南端にある科長神社に接した山腹に小野妹子墓と伝える塚があり、古くから土地の人々によって桜の名所「いもこ」として親しまれていますという。
神社の右手に長い階段があり、右手に小野妹子墓という石碑も立っている。
途中にトイレという矢印が。
参道から分かれて行ってみると、デザインが奇抜なトイレがあって助かった。
その後階段に戻って上り詰めると、玉垣が巡っていた。
垣間見ると、墓とされるものも高くはなかった。
反時計回りに進むと、礼拝所があった。
小野妹子之墳とある。
同書は、南西斜面を中心に原形はかなりそこなわれていますが、塚の規模は東西15m、南北11m、高さ3m余の楕円状を成しています。墳丘のすその部分は後世のはり石で保護されていますが、石室、石棺の用材と思われる石材等は、くずれのはげしい南西斜面でもまったく確認できませんという。
誰のものにせよ、陵墓でもない、ただの丘だったのかも。
小野妹子墓 『王陵の谷・磯長谷古墳群』より

同書は、妹子はよく知られているように、7世紀はじめ聖徳太子が中国の隋へ使者としておくった遣隋大使で、前後2-3回にわたって派遣されています。彼が中国へ持参した国書として『隋書倭国伝』は、
「其国書曰 日出処天子 致書日没処天子 無恙云々 帝覧之不悦 (略) 蛮夷有無礼者 勿復以聞」
と記し、『日本書紀』は、
「其辞曰 東天皇敬白西皇帝」
と記録し、これらは当時大国隋と対等な外交をめざしたものとしてたいへん有名です。又『日本書紀』は、妹子が隋で蘇因高と呼ばれたと記録しています。
このような活躍にもかかわらず、小野妹子の生没年については明確な記録は残っていません。『姓氏録』には近江国の小野村の出としていますが、何故その墓が磯長谷にあるのか、又、同時代の推古天皇陵等を見下ろす景勝地に立地するのかなど、「いもこ」を彼の墓とするには疑問もありますという。
とりあえず一回りするつもりで歩いて行くと、
段々と下り坂になり、結局はあのトイレのある道につながっていた。
ここは紅葉は見られなかったが、
アキノタムラソウのような花が控えめに咲いていた。




関連項目

参考サイト

参考文献
「王陵の谷・磯長谷古墳群」