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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2020/12/17

聖徳太子の墓 叡福寺古墳


以前に夾紵棺のことで記事にしたこともあり、聖徳太子の墓が叡福寺にあることを知ってはいたが、不便そうなので、行くのをためらっていた。
それが、学園前のきのわさんで田上惠美子氏の個展が開催される時期と、紅葉の時期が重なって、それなら車で行こうと、ずっと巣ごもりがちな夫と出掛けることとなった。
近鉄南大阪線の上ノ太子駅の前を通って、電車でも来ることができるところだったと思ったが、そこからが結構あった。車で来て正解😁
新興住宅地の坂道から、狭いが風情のある建物が残る美原太子線に入ってまもなく駐車場へ。その向かい側にも立派な塀のある屋敷と、宝形造の隔夜堂(右端)。

『叡福寺と聖徳太子』という叡福寺の栞は、叡福寺は石川寺、太子寺、御廟寺とも称され、四天王寺、法隆寺とならんで太子信仰の中核となった寺院で、太子薨去後、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟を守る香華寺として僧坊を置いたのが始まりである。神亀元年(724)には聖武天皇の勅願により七堂伽藍が造営されたと伝わるという。
立派な寺院だった。

紅葉も始まっていて、
階段を登って
振り返ると柿色に染まった桜の葉が黒い枝によく映える。
その下や向かいの屋敷の黄色い木々と瓦屋根の家並みも🤗

❾ 南大門
岩座の上に立つ仁王像

栞は、天正2年(1574)織田信長の兵火により堂塔のすべてを失ったが、慶長8年(1603)豊臣秀吉により精霊殿が再建されたのをはじめ、江戸中期にわたって宝塔、金堂などの廟前伽藍が再興されたという。
叡福寺境内図 叡福寺と聖徳太子より

南大門と二天門の間に様々な建物が再建されている。

 多宝塔
栞は、承応元年(1652)の再建。木割りは太目で近世では正統派に属する塔であるという。

また階段があって二天門。その奥のこんもりした森が古墳かな?

❶ 二天門
栞は、聖徳太子自らが廟所として選定された磯長(しなが)廟は、大和から二上山を越えて河内に入った丘陵を利用した円墳(高さ7.2m、直径54.3m)で、内部は横穴式石室になっている。周囲は結界石で二重(観音の梵字 浄土三部経)に取り囲まれているという。
推古30年(622)旧暦2月22日(太陽暦4月11日)太子が49歳で薨去された後、前日に亡くなった妃膳部大郎女と、2ヵ月前に亡くなられた母穴穂部間人皇后と共に埋葬され、三骨一廟といわれるようになったという。

円墳にこれ以上近づけないかと右手方向を探っていくと、廟の建物側面と墳丘が見えるところがあった。
墳丘は樹木の伐採が進んでいて、本来の姿が現れつつある。此岸との隔ては、堀ではなく、二重の結界石。古墳の際の方が古い。
その外側に通路のような舗道が巡っているが、そこにも立ち入ることはできなかった。
ここが墳丘の後ろ側で、
五輪塔がずらりと並んでいる。
後方から墳丘

叡福寺の僧たちの墓だろう。宝篋印塔に無縫塔、奥に大きな五輪塔など。
西側へと下って行く。
『王陵の谷・磯長谷古墳群』は、外側の結界石は享保年間(1716-36)に造られたと伝える花崗岩製の頂部を三角形に切った角山形のものであるのに対し、内側の結界石は凝灰岩製で風化がいちじるしくすすんでいます。その頂部には梵字を刻しています。鎌倉時代の製作と思われますという。

降りて行くとまた古い墓が集められている所があって、
一番気に入ったのはこの塔だった。
『叡福寺縁起と境内古絵図』は、天喜2年(1054)、この石塔建立の際に太子御記文(同寺蔵瑪瑙石)が出現したとされているという。
十三重塔の残骸だと思っていた。
これで一巡。
同書は、石室は現在御廟正面の扉をあけると石段があり、ここが石室の入口(羨道)ですが扉の内部は石とシックイで完全にふさがれています。したがって、石室内は見えませんが花崗岩の切石でつくられた羨道入口にあたる両側壁及び天井石は確認できるということですという。

同書は、今は石室内をみることはできませんが、明治時代のはじめごろまでは廟内に出入りできたようで、いくつかの記録も残っていますという。

さて、玄室
『王陵の谷・磯長谷古墳群』は、明治12年御廟修理にあたり宮内省から来て内部を拝された大沢清臣氏の実検記によると、横穴式石室に石棺が三箇あったとしていますが、梅原末治博士はこの実検記などをもとに、その著『聖徳太子磯長の御廟』で、この内部の様子を図のようなものとされました。これによると聖徳太子の墓は切石をもって築かれた横穴式石室であり、玄室(棺をおさめた奥室)には、一番奥に太子の母の穴穂部間人皇后、前面向かって左に妃の膳部女、右に聖徳太子が葬られたいわゆる三骨一廟であるということです。又、穴穂部間人皇后の棺は石棺、他の2棺は夾紵棺で、それらは仏具の装飾等に用いられた格狭間を刻した石製の棺台にのせにれていたといいますという。
太子町叡福寺古墳石室平面図及び立面図 『王陵の谷・磯長谷古墳群』より

ただ、内部の棺および棺台については問題点もあり、更に太子とその母及び妃の三人を葬ったとする三骨一廟については鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』には記録されていますが、『古事記』『日本書紀』『延喜式』等は全くふれられておらず、果たして本当に三骨一廟であるか等疑問点も多くあります。
夾紵棺については、他の夾紵棺をもつ古墳と比べ、時期が早すぎることなどですという。

二天門より甍の並びと紅葉を見る。この時点ですでに二上山は頭から消えていた。

                     →磯長谷古墳群
   
関連項目

参考文献
「叡福寺と聖徳太子」 叡福寺発行の栞
「王陵の谷・磯長谷古墳群」 太子町立竹内街道歴史資料館 1984年
「叡福寺縁起と境内古絵図」 太子町立竹内街道歴史資料館 2000年