『ミラクルエッシャー展図録』は、エッシャーはなぜ絵を描くことよりも版画に魅かれたのか?彼の最初の木版への傾倒と特別な思い入れは、彼がとても尊敬していた恩師、サミュエル・イェッスルン・ド・メスキータの影響に帰する。エッシャーはハールレムの建築装飾美術学校で彼に学んだ。ド・メスキータは彼に版画伝統への愛情を語り伝え、彼が芸術の世界へ踏み出す第一歩を後押しした。初期の頃、エッシャーは黒と白のコントラストが際立つ風景やドラマティックな夜のシーンに対して興味を持ち、師はそれを支持してくれた。エッシャーはまた当時オランダで木版活動をしていた他のアーティスト-彼らの作品は後期のアールヌーヴォー、表現主義、写実主義のコンビネーションを特徴としていた-からも影響を受けた。しかし、彼には生涯忘れられない記憶(最初の師とその悲劇的な死)があった。ド・メスキータはナチスに捕らえられ、家族とともに殺されたのだ。エッシャーは師が連れ去られた後、師の作品を持ち出そうと彼のスタジオに足を踏み入れた最初の1人である。ド・メスキータの肖像はいつも彼の書斎に飾られていたという。
メスキータの肖像ってエッシャーの描いたメスキータの肖像画?それは今でも残っているのだろうか?
メスキータ作 小さな自画像部分 1896年 28歳 木版 37.0X12.0
同展図録は、メスキータが初めて木版画を制作したのは1896年のことだった。アーチ状の枠の中に、シンプルな輪郭線で横顔を表現している。枠の左側にあるスタンドのようなものは、メスキータが見ている鏡であろう。自画像はこの後、メスキータの重要なテーマとなっていく。画面の上下には、さまざまな太さ、形状の彫り跡が残されている。彫刻刀の様子を見るための試し彫りと思われるが、そのまま印刷されており、面白い装飾的効果を生み出しているという。
鏡の正面で自身の顔を見ている横向きの自画像とは。若い頃はふっくらとしていたのだ。
メスキータ作 マントを着たヤープ 1913年 45歳 木版 19.5X10.3
一人息子ヤープの少年時代。こんなに可愛い作品もあるのに、9年後にはあんな描かれ方をされようとは😒
メスキータ作 髭に手をやる自画像 1917年 49歳 木版 46.0X36.0
同展図録の「M.C.エッシャーの語るサミュエル・イェスルン・ド・メスキータ」(アムステルダム市立美術館で戦後初めて開催された「メスキータ作品展」1946年の図録に掲載された文章を翻訳して転載)は、彼の作品はひと握りの人々にしか評価されず、広く理解されないところがある。メスキータは常に我が道を行き、頑固で率直だった。他の人々からの影響はあまり受けなかったが、自分では強い影響を若い人たち、とくに学生たちに与えていた。とはいえ彼の影響を受けた学生たちの大半は、遅かれ早かれ、その影響から抜け出した。というわけで彼はひとつの流派を作らなかったし、そのことによって、メスキータの孤独で強烈なパーソナリティはさらに魅力的なものになっていくという。
上着の襟や袖の輪郭線、袖口などを斜線で表したり、柔らかく背中に添うソファを緩い弧の輪郭と細い密な線で表している。居心地の良い場所のはずなのに、眼には憂いがある。
癖なのか、右手を口に当て、そのために手入れの行き届いた髭が扇のように広がっている。癖毛の髪のウェーブがこのように表されるのは、今回出品された若い頃の自画像にはない。
エッシャー作 自画像 1917年 19歳 リノカット 21.6X13.1
『ミラクルエッシャー展図録』は、エッシャーが本格的に版画家としての道に進む前に制作されたリノカット技法による版。美術学校に入る以前に、エッシャーは学校の美術教授ファン・デル・ハーヘンからリノカット技法を学び、18歳頃にいくつかの版画を制作していた。この時にエッシャーが見せたグラフィックアーティストとしての片鱗は、ハールレムの建築装飾美術学校で開花することになるという。
同展図録の年譜には、1919年、ハールレムの建築装飾美術学校へ入学。当初建築を学ぶが、版画制作へ転じ、サミュエル・イェスルン・ド・メスキータのもとで版画技法を学ぶ(1922年卒業)とある。
エッシャー作 ひざに猫を置いて座る男 1919年 21歳 木版 11.7X9.0
2年前の自画像とはがらりと変わった
スーツを縦線だけで表して、襟、袖膝、ズボンの裾と、最小限の線で境界を示しているのは、メスキータの、髭に手をやる自画像(1917)の反対のようでもある。
本を膝の上で広げた上に猫が乗ってきたのかと思っていたが、縞のない黒い袖口から手が出ているのだった。
ほぼ左右対称だが、両足の靴の裏がそれを大きく破っている。
エッシャー作 椅子に座っている自画像 1920年 22歳 木版 19.5X17.0
メスキータ作 マントを着たヤープ 1913年 45歳 木版 19.5X10.3
一人息子ヤープの少年時代。こんなに可愛い作品もあるのに、9年後にはあんな描かれ方をされようとは😒
メスキータ作 髭に手をやる自画像 1917年 49歳 木版 46.0X36.0
同展図録の「M.C.エッシャーの語るサミュエル・イェスルン・ド・メスキータ」(アムステルダム市立美術館で戦後初めて開催された「メスキータ作品展」1946年の図録に掲載された文章を翻訳して転載)は、彼の作品はひと握りの人々にしか評価されず、広く理解されないところがある。メスキータは常に我が道を行き、頑固で率直だった。他の人々からの影響はあまり受けなかったが、自分では強い影響を若い人たち、とくに学生たちに与えていた。とはいえ彼の影響を受けた学生たちの大半は、遅かれ早かれ、その影響から抜け出した。というわけで彼はひとつの流派を作らなかったし、そのことによって、メスキータの孤独で強烈なパーソナリティはさらに魅力的なものになっていくという。
上着の襟や袖の輪郭線、袖口などを斜線で表したり、柔らかく背中に添うソファを緩い弧の輪郭と細い密な線で表している。居心地の良い場所のはずなのに、眼には憂いがある。
癖なのか、右手を口に当て、そのために手入れの行き届いた髭が扇のように広がっている。癖毛の髪のウェーブがこのように表されるのは、今回出品された若い頃の自画像にはない。
エッシャー作 自画像 1917年 19歳 リノカット 21.6X13.1
『ミラクルエッシャー展図録』は、エッシャーが本格的に版画家としての道に進む前に制作されたリノカット技法による版。美術学校に入る以前に、エッシャーは学校の美術教授ファン・デル・ハーヘンからリノカット技法を学び、18歳頃にいくつかの版画を制作していた。この時にエッシャーが見せたグラフィックアーティストとしての片鱗は、ハールレムの建築装飾美術学校で開花することになるという。
同展図録の年譜には、1919年、ハールレムの建築装飾美術学校へ入学。当初建築を学ぶが、版画制作へ転じ、サミュエル・イェスルン・ド・メスキータのもとで版画技法を学ぶ(1922年卒業)とある。
エッシャー作 ひざに猫を置いて座る男 1919年 21歳 木版 11.7X9.0
2年前の自画像とはがらりと変わった
スーツを縦線だけで表して、襟、袖膝、ズボンの裾と、最小限の線で境界を示しているのは、メスキータの、髭に手をやる自画像(1917)の反対のようでもある。
本を膝の上で広げた上に猫が乗ってきたのかと思っていたが、縞のない黒い袖口から手が出ているのだった。
ほぼ左右対称だが、両足の靴の裏がそれを大きく破っている。
エッシャー作 椅子に座っている自画像 1920年 22歳 木版 19.5X17.0
同展図録は、自分自身を低い視点、彼の磨きこまれた靴のすぐ近くから描いている。まっすぐにこちらを見ず、物思いに耽っているように見える。この時期エッシャーはハールレムで建築学を専攻する若い学生であった。建築の勉強はしていたものの、彼は将来の職業についての不安を抱き始めた。版画の世界を発見し、その魅力に心が揺れていたからだ。版画の伝統、特に木版画の技術を彼に伝えたのは師である、ド・メスキータであった。ド・メスキータはエッシャーに最も影響を与えた師であり、彼のクリエイティブな興味をサポートしてくれた。この自画像の中にエッシャーの職業選択についてのためらいと同時に、悩んだ末の結果が見てとれる。彼の部屋に掛けられた額入りの絵によって、エッシャーは自身が版画家であることを明確にしているという。
ひざに猫を置いて座る男と同じ籐椅子に座っているので、上の作品も正面観の自画像で、本作品は床から斜め上に見上げる視点へと変化している。
壁に掛かっているのは自分の作品?
エッシャー作 男の肖像 1920年 木版(カウンタープルーフ) 34.5X34.4
壁に掛かっているのは自分の作品?
エッシャー作 男の肖像 1920年 木版(カウンタープルーフ) 34.5X34.4
『ミラクルエッシャー展図録』は、エッシャーは、ド・メスキータから木版画技法を学んだ。そのためエッシャーの初期の木版画には、ド・メスキータからの強い影響下にあったことを示す白と黒のコントラストの強い表現が用いられている。なお、この本作の刷りは、基準作品のカウンタープルーフ、すなわち左右反転の逆向きの版であるという。
反転しているおかげで、この横顔は、26年にメスキータが制作した「メメント・モリ」の横顔によく似ていることに気付いた。エッシャーがいつも書斎に飾っていたというメスキータの肖像画こそ、この作品だったのかも知れない🧐
また、『メスキータ展図録』でエッシャーは、学生たちが猿真似をしたとき-それはよく起きたことなのだが-メスキータはしばしば不機嫌になったという。
そういう師に対抗してほぼ曲線で仕上げたこんな肖像を制作したのでは😉
斜格子というよりは、籐細工が透けて奥の部分が見えたり、編み方が一様でなかったりと細かく描写した円内の背景を背にして、息子を描いているのだが、ホラー映画のポスターのようなおどろおどろしさがある 😵
13年には少年だった息子のヤープは、22年には大人になっている。とはいってもまだ若者なのに、そうは見えないこの顔貌。丸眼鏡の奥の眼の周りの黒い部分は、彫りが深いだけとも思えない。
メスキータ作 メメント・モリ(頭蓋骨と自画像) 1926年 58歳 鉛筆・紙 35.4X26.1
同展図録は、60歳を目前にしたメスキータの自画像である。ここでメスキータが眼前にしているのは鏡ではなく頭蓋骨だ。タイトルになっている「メメント・モリ」は「死を忘れるな」という意味で、西洋美術では伝統的な主題であるという。
13年には少年だった息子のヤープは、22年には大人になっている。とはいってもまだ若者なのに、そうは見えないこの顔貌。丸眼鏡の奥の眼の周りの黒い部分は、彫りが深いだけとも思えない。
メスキータ作 メメント・モリ(頭蓋骨と自画像) 1926年 58歳 鉛筆・紙 35.4X26.1
同展図録は、60歳を目前にしたメスキータの自画像である。ここでメスキータが眼前にしているのは鏡ではなく頭蓋骨だ。タイトルになっている「メメント・モリ」は「死を忘れるな」という意味で、西洋美術では伝統的な主題であるという。
髪も短く、口髭も顎鬚もない。自身の本来の姿を描こうとする意志を表しているようだ。
横顔の頬から頸部にかけて深い皺が何本も刻まれていて、しかも直線のものが多い。
メメント・モリ第3ステート 1926年 58歳 木版 32.7X61.7
頭蓋骨を傍らに置く人物像として表されるのが一般的で、死後の神による審判を想って正しく生きよ、という教訓的な意味合いを持つことが多いが、本作で頭蓋骨と向き合うメスキータの横顔には、死への畏れというよりは、諦めのような表情が浮かんでいるという。
髪は短くなったが、口髭はやはりたくわえている。深い皺に立体感が出てきた。
メメント・モリ第10(最終)ステート、部分 1926年 58歳 木版 31.0X61.0
首から顎にかけて刻まれた深い皺と、白い眉や髭は、老いの現実を感じさせずにはおかないという。
メメント・モリ第3ステート 1926年 58歳 木版 32.7X61.7
頭蓋骨を傍らに置く人物像として表されるのが一般的で、死後の神による審判を想って正しく生きよ、という教訓的な意味合いを持つことが多いが、本作で頭蓋骨と向き合うメスキータの横顔には、死への畏れというよりは、諦めのような表情が浮かんでいるという。
髪は短くなったが、口髭はやはりたくわえている。深い皺に立体感が出てきた。
メメント・モリ第10(最終)ステート、部分 1926年 58歳 木版 31.0X61.0
首から顎にかけて刻まれた深い皺と、白い眉や髭は、老いの現実を感じさせずにはおかないという。
メスキータは、縦長の画面に一部だけ自画像を表している作品があるが、この作品では、逆さになったサボテンが頭上まで達していて、葉と花が分岐するところから、横縞が広がっている。その上にはギザギザの斜線が、横縞の輪郭と平行している。
見方を変えると、窓の外に上階から落ちそうになったサボテンが何かに引っかかり、こんな状態でとまっているのを部屋の中から眺めている。メスキータ家の窓にはギザギザの端のカーテンと、少し長い端の飾りのないカーテンが二重になっているので、その三角形の隙間から、サボテンが落ちるか落ちないか、メスキータは様子を見ている。
目の下には細い皺がたくさんあるが、26年の「メメント・モリ」のような深い皺はない。ということは、「メメント・モリ」は、自分かもっと年を取った顔を想像して描いていたのでは。
今までと違い、顎鬚に口髭、その上一文字に続く眉、ウェーブする髪など、今までのエッシャーの自画像とは全く異なる特徴を重点的に描いているように見える。
メスキータ作 髭のある眼鏡をかけた自画像、部分(下に続く長い空白部分は省略) 1930年 62歳 木版 17.0X12.0
メスキータ作 髭のある眼鏡をかけた自画像、部分(下に続く長い空白部分は省略) 1930年 62歳 木版 17.0X12.0
輪郭のない人の顔だが、髭によってなんとなく顔が想像できる。
『ミラクルエッシャー展図録』は、この版画は16-17世紀にかけてのオランダやフランドルの絵画の特徴であるキリスト教のヴァニタス画の伝統を表したものである。これらの絵画では、静物は、壊れやすい世界の空虚さや我々自身のはかなさを象徴するものとして描かれている。エッシャーの版画の多くにも見られる反射鏡の使用もまたルネサンスやバロック絵画からよく知られている。これらの作品の中の空間を広げる手段として用いられている。鏡は外界の存在を表すもの、つまり隠れた神の存在を暗示すると考えられていたという。
空き瓶の隣に笑っているような鳥については、エッシャーが義父からプレゼントされたペルシャの金属製彫刻であるという。
ペルシアの人面鳥?気になるので、ちょっと調べてみよう。
空き瓶の隣に笑っているような鳥については、エッシャーが義父からプレゼントされたペルシャの金属製彫刻であるという。
ペルシアの人面鳥?気になるので、ちょっと調べてみよう。
エッシャー作 父の肖像 1935年 37歳 リトグラフ 26.2X20.8
同展図録は、エッシャーは、オランダ北部フリースラント州のレーウワルデンに、運輸省につとめる水力工学の技師と彼の2番目の妻サラ(政府要人の娘)の五男という。
その父78歳の時の肖像である。頭頂部のふわふわした髪の毛1本1本まで、細密に描写していて、自画像とは全く異なる表現なのは、父の好みなのだろう。
その父78歳の時の肖像である。頭頂部のふわふわした髪の毛1本1本まで、細密に描写していて、自画像とは全く異なる表現なのは、父の好みなのだろう。
『魔術の芸術 エッシャー展図録』は、ジョージ・アーノルド・エッシャー(1843-1939)は、デルフトで、エンジニアリングの勉強を終えてから間もなく、彼は他のオランダ人技師と一緒に日本に行って、大阪の河川や港湾の改良事業に携わるという道を選んだ。1873年に来日して、5年間滞在しているという。
参考文献
「生誕120年 イスラエル博物館所蔵 ミラクル エッシャー展図録」
「メスキータ展図録」 2019年 キュレイターズ
「魔法の芸術 エッシャー展図録」 1981年 アート・ライフ
エッシャー作 写像球を持つ手(球面鏡の自画像) 1935年 37歳 リトグラフ・金色の紙 31.8X21.3
『ミラクルエッシャー展図録』は、「球面鏡にあらわれる自画像」は西洋美術史にしばしば登場する画題で、このようなゆがんた鏡の自身のイメージがエッシャー作品に現れるようになるのは1934年以降のことで、本作では、球面鏡を手に持つエッシャーが、当時の自宅の様子とともに描き出されているという。
エッシャーの顔ではなく目が球体の中央に配されているが、これはエッシャー自身が意図したことであった。彼によれば、本作の人物(エッシャー)は「彼がいくらよじったりひっくり返ったりしても、その中心点からは逃れられない。彼のエゴはゆるぎなく彼の世界の核であり続ける」と語っているという。
やっぱり眉は繋がっている。それよりも37歳の風貌とはとても思えない。
部屋の奥にある机でいつも制作していることが、窓やペンダントライトから推測されるが、この作品は、反対側の部屋の隅にあるソファに座り、球体を持っている。
やっぱり眉は繋がっている。それよりも37歳の風貌とはとても思えない。
部屋の奥にある机でいつも制作していることが、窓やペンダントライトから推測されるが、この作品は、反対側の部屋の隅にあるソファに座り、球体を持っている。
エッシャー作 三つの球体Ⅱ 1946年 48歳 リトグラフ 26.2X46.5
左と中央の球体は、窓の外に映っているものから判断すると同じ部屋だが、左の球体にはぼんやりした輪郭の中にロゼッタ文(花を真上から見下ろした)が描かれ、右下には別の景色が描かれている。
球体に映る、三つの球体Ⅱを描く自分とその周囲にあるもの、あるいは映っているものを描いているが、左の窓の下の奇妙な形のものは何だろう。右側にある白く丸いものは、隣の球体が映っているのだと思う。
エッシャー作 写像球体の自画像 1950年 52歳 木口木版 直径8.2
今回出品されている自画像の中では最も高齢、とはいえまだ52歳。47歳の時よりも若く見える。白い歯が見えているのはやや不気味。
本来は直線のものが全て曲線になる球体の中の世界を楽しみながら制作しているのだろう。
今回出品されている自画像の中では最も高齢、とはいえまだ52歳。47歳の時よりも若く見える。白い歯が見えているのはやや不気味。
本来は直線のものが全て曲線になる球体の中の世界を楽しみながら制作しているのだろう。
関連項目
「生誕120年 イスラエル博物館所蔵 ミラクル エッシャー展図録」
「メスキータ展図録」 2019年 キュレイターズ
「魔法の芸術 エッシャー展図録」 1981年 アート・ライフ