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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/06/22

仏塔は四角形?八角形?十二角形?



明代に建てられた永祚寺の双塔は磚積みの八角形の塔だった。 日本で塔というと石塔寺の塔など例外を除いて、四角い木造のものを思い浮かべる。だから双塔や遼時代の応県木塔は、実際に見てそれほどの違和感はなかったが、何故八角形なのかと思ってしまう。

1 慈恩寺大雁塔 陝西省西安 唐、長安4(704)年再建 部分 石造
唐代の大雁塔は仏塔ではないが四角形だった。 

『世界文化史蹟17 中国の古建築』は、明代に外壁を厚い磚の壁で包んだので、外形は玄奘のときの現状とは、すでに変わっている。 
初層4面の入口の楣石に刻まれた線刻画のひとつに仏殿図があり、間口5間、寄棟造の仏殿が精緻に描写されており、唐代木造建築の様式を知るうえで貴重な資料を提供しているという。中国ではいつから塔が八角形になったのだろうか?
『中国建築の歴史』は、隋・唐時代のもので現在までのこっている仏塔の平面はほとんど四角形であり、八角形のものはわずかに仏光寺の無垢浄光塔が見られるだけである。 ・・略・・ 遼・宋以後は、八角形の仏塔平面がもっとも一般的な形式になるのであるが、唐代初期の墓塔で八角形につくられたものはわずかにこの一例のみである。このような八角形の平面は、たぶん当時の寺院内につくられた小型の八角形殿堂の平面を模してつくられたものとおもわれる。また、この塔の塔身の彫刻は、正面の円形アーチの入口のほかは、ほとんどすべてが当時の木構造様式の模倣であり、唐代の木造建築の遺構がきわめてすくない情況においては、ひじょうに重要なものであるという。
唐代には塔は四角形だったことがわかった。そして塔が八角形になる端緒となったという経幢をみてみたい。

2 五台山仏光寺 経幢 高さは4.9m 山西省 唐、乾符4年(877)  石造
『中国建築の歴史』は、八角形をなし、下は須弥壇になり、その上に幢身を立て、幢身には陀羅尼経と幢を建てた人の名前が刻まれている。  ・・略・・ 幢身の上には宝蓋があり、その八隅には獅子頭が彫り出され、獅子の口から瓔珞が下がっている。宝蓋の上には屋根があり、その上に山華蕉葉、火珠などがのっている。幢全体の形態は、各部分の軽重と繁簡がひじょうに明確で、比例もすこぶる適切であり、仏教上、一種の宣伝性と記念性に富んだ建築である
という。

 火袋があれば日本では燈籠ではないかと思うような形である。日本の燈籠の原型かも。
では、唐代の四角形の塔を見てみると、

3 薦福寺小雁塔 西安 景龍元年(707)  磚造
『中国建築の歴史』は、塔の全高は約50mあり、初層がの階高がとくに高く、その上の各層は急激に低くなっている。初層の南北の壁にはアーチ型出入口がそれぞれひとつずつあって、その内部は方形のへやになり、頂上に通じる階段を配置している。塔の壁には柱や貫はなく、各層ごとに磚積みの軒を出し、軒先の持ち送りに積んだ磚の間には雁木型突出(菱角牙子)が2層挿入されており、軒の上方はそのまま持ち送りの磚積みによって丈の低い腰組としていて、一般の密檐式の塔の形式とは異なったものとなっている。構造の関係から、軒の出は大きくない。塔身の外形をみると、各層の塔身の幅が下から上にかけてしだいに逓減させているので、外形はまろやかで美しい輪郭線を構成しており、これは唐代の塔の様式のすぐれた点である。 塔の平面は正方形、初層は1辺の長さ11.25mで、磚積みの高い基壇の上に建ち、密檐式になる。軒は全部で15層あったが、明の嘉靖34年(1555)の陝西地震の時に、2層がくずれ落ちて、13層だけがのこり、同時に塔身の内部にも亀裂が生じたという。4  興教寺玄奘塔 西安 太和2年(828) 磚造
『中国建築の歴史』は、唐、総章2年(669)に創建された、インドを遍歴した玄奘法師の墓塔が1基ある。太和2年(828)に、塔身部の徹底的な修理がおこなわれ、同3年に工事を終わり、現在見られるような状態になった。塔は磚築で、平面は正方形、高さは5層、外形は楼閣式になり、初層は1辺5.2m、全高は21mである。塔身部の下に基壇はなく、地面の上に直接建っているが、この種の工法はほかにほとんど見られないものである。塔の初層は他の塔とかわりがなく、南側の壁に半円アーチ形の入口があり、内部には玄奘の塑像を安置した小さな方形のへやがある。 
この塔の持ち送り積みの軒の部分は、内側に彎曲した輪郭線をつかっており、軒の磚の枚数も他の唐代の塔より多いため、軒の出はかなり大きく、しかも分厚く、この塔の特徴になっている。 

建築史的にも、唐代の木構造を模した磚塔の典型をそなえたものとして最古の遺構であるというこ。
このような木造を模した塔が、現存しないが唐代には木造の塔があったことを示している。しかし、このことから法隆寺の五重塔は中国の木造塔の伝播したものだというのは性急すぎる気がするなあ。
5 神通寺四門塔 山東省歴城県 東魏、武定2年(544)  石積み
『中国建築の歴史』は、塔は全部石積みでつくられており、題記をみると、おそくとも東魏の武定2年(544)の作品で、これは中国に現存する最古の石塔である。塔は1層のみであり、むしろ石造仏龕と呼ぶべきかもしれない。唐の軒は数層に持ち送りで跳ね出し、その上に宝形の屋根を積み上げ、頂部は山華蕉葉を用いて相輪を受けている。その全体のかたちは当時の各石窟の浮彫の塔の表現形式と一致しており、素朴、簡潔で、しかも重厚な様式をよくあらわしている。塔の平面は正方形で、四面にはそれぞれ半円形アーチの入口があるため、一般に四門塔と呼ばれている。塔内中央には1本の心柱がある。柱の四面には金光明経の上に四体の仏像がきわめて精巧に彫刻されているという。

宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根は日本にもある。塔よりも仏堂のような印象を受ける。
このように古い塔を探していると、北魏時代の仏塔を見つけた。ところがその形は四角形でも八角形でもなかった。

6 嵩岳寺の塔 河南省登封  北魏、正光4(523)年 磚造
『中国建築の歴史』は、中国で最古の密檐式磚塔である。その平面は十二角形で、後世にあまり見られないものである。嵩山は、北魏のときに禅僧が集まったひじょうに重要な拠点であり、寺院がきわめて多かった。北魏の宣武帝(孝文帝の後)のとき、 ・・略・・ 嵩山の景勝の地を選んで隠居の寺をつくらせた。北魏の正光4(523)年、さらに寺は拡張され、 ・・略・・ 現在は磚塔がのこるのみである。下層の添柱(倚柱)と仏龕などの形式には、なおインド様式がのこっている。密檐式の軒は磚を積んで持ち送り、外方に跳ね出し、凹形の曲線を形成しており、ひじょうに柔和な感じである。また磚材による構造の性質ともひじょうにうまく適合している。塔身部は、半円形の窓と持ち送りに出した軒がたがいに引き立て合って、塔身をいちじるしく華麗で生きいきとしたものにしている。塔身全体は上方に向かってゆるやかな逓減をもち、磚造建築に生硬な感じをすこしもあたえておらず、成功した作品である。塔の内部に床板を用いる手法は、当時の磚塔の特徴のひとつである。この塔は、今日まで1400年あまりを経ながら、なおたいした損傷もなく、磚積みの高度な技術水準をうかがうことができる。塔の初層平面は十二角形で、内部は八角形をなし、高さは約40mであるという。

インド風の紡錘形ストゥーパに近い塔を造ろうとして、十二角形になったのだろうか。
『中国仏塔紀行』は、伏鉢部分が退化し上部がすぼまった砲弾型の立面は、ガンダーラ地方に見られる方形塔身を円形に近い12角とし、基壇部分を高くしたストゥーパの系統を引く発展型式と見られたという。
北魏時代、塔が十二角形というのは一般的なことだったのだろうか?『世界文化史蹟17 中国の古建築』は、中国では西暦紀元前1000年以上も前から、丘上とか土をもり上げた人工の高台に木造の高層建築をたてることが流行した。いわゆる台樹であるが、単に台ともいう。神仙は高いところに住むという思想から、台の上部に神仙をまつるのもあった。  
初期の寺院は中心建築として3層などの楼閣をたてて、頂上に銅製のいわゆる相輪をのせ、第1層に金色の仏像をまつった。それはインド系の高塔建築ヴィハラ(精舎)のまねであり、ヴィハラの頂上のストゥーパ形が中国では相輪となった 
第3から4世紀ころからインドにおけるブッダのお骨、すなわち仏舎利の崇拝思想が伝わって、中国では中心建築の浮図で仏舎利と称するものをまつったことから、浮図が自然にインドのストゥーパと同じ建築と見なされた結果、中国系にしかない高層形の塔婆が生まれたのである。・・略・・ 漢字で塔婆と書くが、略して塔ともいうようになった。
かかる初期の四角な木造塔婆の形式のほかに、第5世紀には石造塔婆、磚造塔婆があらわれ、層数をだんだん増加した。北魏の皇帝が467年に当時の首都の平城(いまの山西省大同市)にたてた永寧寺の塔婆は、木造7層であり、また第6世紀の初めに首都洛陽に設立した永寧寺の木造塔婆は9層であって、高さ100mよりはるかに高かったらしい。このように、中国では木造の四角平面の塔が、塔の基本形として唐代まで続いた
という。

現存最古の嵩岳寺塔が誕生するまでの中国の塔の歴史である。

※参考文献
『中国建築の歴史』 田中淡訳編 1981年 平凡社
『世界文化史蹟17 中国の古建築』 村田治郎・田中淡 1980年 講談社
『中国仏塔紀行』 長谷川周 2006年 東方出版