応県木塔(仏宮寺釈迦塔)は監視塔でもあったでも紹介した太原の双塔は全て磚でできている。明時代の塔ということで、華美なものを想像していたが、北側から近づくと見えてきた塔は、全く違っていた。 遠くから見えるが、山門から入ると一番奥に双塔はそびえている。
永祚寺は明の萬歴年間(1573-1619年)に創建され、その山門もグレーの磚(焼成レンガ)でできているのだが、寺名の扁額、アーチ形門の両側にある瑠璃瓦の装飾が目立つので、軒の木造の組物には気づかなかった。
宣文塔平面は八角形、十三層、高さ54.7m。 間近で見上げると塔のてっぺんは見えない。
こちらの塔は各層屋根の軒瓦が青い瑠璃釉で、多少くっきりと見えるので、その軒が木造の組物のようになっているのに気づいた。
文峰塔も同じような大きさということだった。こちらも層の軒に組物が磚で表されている。『山西古建築通覧』は中国語の本なので、なんとなくしか理解できないのだが、やはり斗栱を刻みというような表現をしている。
軒の裏は角材の垂木を表していて、1つ1つを磚で構成しているのではなく、凹凸のある板状のものをつないでいるように見える。斗栱も部材をそれぞれの形の磚を造り、それを組み合わせているのか、1組を1つの複雑な磚で造っているのか、よくわからない。 ところで、双塔は登ることができるという。夫が内部に入って写真を撮ったのだが、真っ暗だと言って登るのを止めたので、残念ながら上層の内部がどのようになっいるのかわからない。初層は上を支えるために磚を詰めて造ってあるとしても、上層は重量軽減のために、中空になっていたかも知れない。
また、永祚寺は山門・双塔以外の建物も、磚造で、この大雄宝殿も同じように斗栱を組むように構成されている上に、円柱まで凹凸で表している。
見学した時はちょうどボタンの時期で、この庭は紫霞仙という明時代からある古い種類のボタンだけが咲いていた。
では、何故わざさわざ磚で木造風に凝った伽藍を造ったのだろうか。火事を防ぐためかも知れないし、もう山西省にはお寺を建てるほどの大きな木がなかったのだろうか。
※参考文献
『山西古建築通覧』(1987年 李玉明主編 山西人民出版社)