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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/06/13

応県木塔(仏宮寺釈迦塔)は監視塔でもあった



太原から大同への高速道を新広武料金所で降りて50分程で応県仏宮寺木塔に到着した。方角的には恒山山脈へと向かっているので、多少の勾配はあったのだろうが、ひたすら平たい高原を車で走ったという記憶がある。 ガイドの屈さんが、木塔は正式には釈迦塔と言います。遼の時代に建てられました。高さは67.13mあります。八角形の五重塔です。北東に10度傾いています。専門家が傾きを直すために会議を開きましたが、結論は出ませんでしたと説明してくれたが、他に比較する建物がないこの八角五重塔がそんなに高いことが実感できない。
それで、昔写した法隆寺五重塔(708-715年に再建、高さ32.5m)と比較してみたらこんな感じになりました。前日に太原東郊の明時代創建の双塔寺で八角形の十三重塔を見ていたので、あの細長い塔の方がずっと高く感じた。

屈さんは、宣文塔は高さ55mぐらい。明の時代、万歴帝(1573-1619年)のお母さん、宣文皇太后が建てました。屋根は青い瑠璃瓦で、瓦以外は全部レンガで造られていますと言っていたので、ずんぐりした木塔の方が高かったのだ。同じく宣文皇太后が建てた文峰塔も同じくらいの高さという話だった。
そこで、双塔とも比較してみると、ほぼこんな感じです。 双塔には登らなかったが、木塔は上まで登れるとガイドブックにあったので、この日は登る気でいた。木塔の方が高いとはいっても、幅が広いので安定感があった。
ところが、現在では2階までしか登れなかった、残念。
『図説中国文明史8 遼西夏金元』 に大同市善化寺普賢閣は、外廊の周囲に手すりをめぐらした構造は、遼代建築の特徴をそなえる。宋・遼・金の時代、黄河以北の地域では、仏教寺院で高い塔の形をした楼閣が流行し、景色をながめると同時に、敵のようすを監視することができたという。

北方民族が建国した遼が、清寧2年(1056)に67mもある塔をこの地に建てたのは、信仰心だけでなく、敵を監視するという実用性もあったに違いないと思った。
では、遼が応県の木塔から何を監視していたのか。それは雁門関の周りの土壁はどれも長城に見えるで紹介した『図説中国文明史7 宋』に掲載された北宋・遼・西夏の領土図にあるように、山西省代県の高い山にある雁門関が北宋側の監視塔なら、この木塔は遼側のそれだったことは、実は戦争には関心がなく、日本史も世界史も興味が持てなかった私にでも察することができる。

さて、2層目より一周します。南西側、 真っ平らです。同図の瓦橋関という文字のあるあたりに応県木塔があると思いますが、雁門関と長城で紹介した『地球の歩き方05-06中国』の地図と比較して下さい。地図からこの方向に北宋との国境があったはずです。 南側にも国境。仏宮寺の回廊、山門の両側、南側と全てが新しい。 南東側にも国境。応県は小さな町なので、建物も低いが、中国の他の町同様、新しい住宅がどんどん建っている。
東側にも国境。恒山山脈がうっすらと見えている。お寺の外壁の向こうは屋根に石を並べた古い家々も、いずれはなくなってしまうのだろうなあ。 北東側は遼の領土。恒山山脈が少し続く。境内の北東角にあるのはビニールハウス。敦煌でも見かけたが、この山西省一帯で見られる。北側が土壁となって、南面にカーブしてビニール屋根がかかっている。上に並んでいるのはムシロのようなもので、寒さ除けかな。 北側も遼の領土。下の建物は最近再建された本堂だったと思う。 北西側も遼の領土側。仏宮寺境内の西側は公園として整備されているらしい。大同はこの方角かな。 西側も遼の領土。それにしてもこの広さ。バルコニーを一周して八方を眺めたら、第2層からでも、視界を妨げるものは何もなかった。第5層まで登ると、もっと遠くまで見晴るかせたに違いない。

「図説中国文明史7 宋」(劉煒編・杭侃著 2006年 創元社)
「図説中国文明史8 遼西夏金元」(劉煒編・杭侃著 2006年 創元社)
「地球の歩き方05-06中国」(2005年 ダイヤモンド社)