ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/06/11
雁門関の周りの土壁はどれも長城に見える
雁門関という名が思わぬところに現れた。『山西古建築通覧』には、高見邦雄氏の黄土高原リポート118)雁門関の写真のような建物はないが、雁門関としてこの写真が紹介されていた。同書は、北宋は燕雲十六州(北京・大同を中心とした河北・山西一帯)の天然の障壁をうしなった。関所の守備を強化することで、北方民族の侵入を阻止せざるを得なかった。現在の山西省代県にある雁門関はそのなかの一つであり、楊業はかつてこの地で遼軍を打ち負かしたという。
雁門関は漢の時代だけでなく、北宋時代にも、漢民族と契丹人とのせめぎ合いの拠点だったのだ。 また同書には代県長城を上から撮った写真があった。長城は岩山の尾根に造ってあるのだが、土壁ではなく焼成レンガを積み上げたものだった。通路にも切石ではなく焼成レンガを敷き詰めてあった。『図説中国文明史4 秦漢』には前127年の漢民族と匈奴の戦いの様子を図解してある。ここには長城は黄河の東にはないのだが、雁門という地名がすでにある。
WADAフォトギャラリーの万里長城に長城の図面が紹介されていて、秦代および明代の万里の長城線が描かれている。そこには雁門郡を通る明代の長城が張家口まで続いている。 そして『図説中国文明史7 宋』には、北宋・遼・西夏の領土が図解してあり、雁門が遼と北宋の国境線上にあることがわかる。新広武料金所を出てすぐにある広武漢墓群から応県の木塔(正式には仏宮寺釈迦塔)に向かう道で、夫は土の塊?を見つけては烽火台と写真を撮り、土壁状のものを眼にするとシャッターを切った。何分かなりのスピードで走る車から撮るので、ピントが合わないのは仕方がない。
これはよく見かけた羊の群れがやっとそれとわかる程度に撮れたもの。羊の輪の中に烽火台らしきものがあった。
このように、風化しているにしても、潰してしまわずに歴史を物語るものが人々の生活の中にある。たくさんある。この辺りはひたすら平たいのだが、その中に丘があったようには思えない。やっぱり人が積み上げたもののように思えてならない。 そして、渾源県の懸空寺から大同へ向かう道にも、烽火台に似たものや、長城かなあと思うようなものを見かけた。ガイドの屈さんは長城であることを認めなかったのだが、高見邦雄氏の「黄土高原リポート118)雁門関」には雁門関の北側のふもとにも城壁がめぐらされ、二重三重の護りがありましたとあるではないか。ひょっとするとこれらの土壁状のものもそういう長城の一部分だったかも知れないな。
※参考文献
「図説中国文明史4 秦漢」(劉煒編著 2005年 創元社)
「図説中国文明史7 宋」(劉煒編・杭侃著 2006年 創元社)
「山西古建築通覧」(李玉明主編 1987年 山西人民出版社)
※参考ウェブサイト
高見邦雄氏の黄土高原リポート118)雁門関
WADAフォトギャラリーの万里長城