雁門関という名が思わぬところに現れた。『山西古建築通覧』には、高見邦雄氏の黄土高原リポート118)雁門関の写真のような建物はないが、雁門関としてこの写真が紹介されていた。同書は、北宋は燕雲十六州(北京・大同を中心とした河北・山西一帯)の天然の障壁をうしなった。関所の守備を強化することで、北方民族の侵入を阻止せざるを得なかった。現在の山西省代県にある雁門関はそのなかの一つであり、楊業はかつてこの地で遼軍を打ち負かしたという。
雁門関は漢の時代だけでなく、北宋時代にも、漢民族と契丹人とのせめぎ合いの拠点だったのだ。
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WADAフォトギャラリーの万里長城に長城の図面が紹介されていて、秦代および明代の万里の長城線が描かれている。そこには雁門郡を通る明代の長城が張家口まで続いている。
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これはよく見かけた羊の群れがやっとそれとわかる程度に撮れたもの。羊の輪の中に烽火台らしきものがあった。
このように、風化しているにしても、潰してしまわずに歴史を物語るものが人々の生活の中にある。たくさんある。
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※参考文献
「図説中国文明史4 秦漢」(劉煒編著 2005年 創元社)
「図説中国文明史7 宋」(劉煒編・杭侃著 2006年 創元社)
「山西古建築通覧」(李玉明主編 1987年 山西人民出版社)
※参考ウェブサイト
高見邦雄氏の黄土高原リポート118)雁門関
WADAフォトギャラリーの万里長城