太原から大同への高速道を新広武料金所で降りて50分程で応県仏宮寺木塔に到着した。方角的には恒山山脈へと向かっているので、多少の勾配はあったのだろうが、ひたすら平たい高原を車で走ったという記憶がある。

それで、昔写した法隆寺五重塔(708-715年に再建、高さ32.5m)と比較してみたらこんな感じになりました。

屈さんは、宣文塔は高さ55mぐらい。明の時代、万歴帝(1573-1619年)のお母さん、宣文皇太后が建てました。屋根は青い瑠璃瓦で、瓦以外は全部レンガで造られていますと言っていたので、ずんぐりした木塔の方が高かったのだ。同じく宣文皇太后が建てた文峰塔も同じくらいの高さという話だった。
そこで、双塔とも比較してみると、ほぼこんな感じです。

ところが、現在では2階までしか登れなかった、残念。

北方民族が建国した遼が、清寧2年(1056)に67mもある塔をこの地に建てたのは、信仰心だけでなく、敵を監視するという実用性もあったに違いないと思った。
では、遼が応県の木塔から何を監視していたのか。それは雁門関の周りの土壁はどれも長城に見えるで紹介した『図説中国文明史7 宋』に掲載された北宋・遼・西夏の領土図にあるように、山西省代県の高い山にある雁門関が北宋側の監視塔なら、この木塔は遼側のそれだったことは、実は戦争には関心がなく、日本史も世界史も興味が持てなかった私にでも察することができる。
さて、2層目より一周します。南西側、 真っ平らです。同図の瓦橋関という文字のあるあたりに応県木塔があると思いますが、雁門関と長城で紹介した『地球の歩き方05-06中国』の地図と比較して下さい。地図からこの方向に北宋との国境があったはずです。








「図説中国文明史7 宋」(劉煒編・杭侃著 2006年 創元社)
「図説中国文明史8 遼西夏金元」(劉煒編・杭侃著 2006年 創元社)
「地球の歩き方05-06中国」(2005年 ダイヤモンド社)