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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/06/14

応県木塔の構造



仏宮寺釈迦塔は、『図説中国文明史8 遼西夏金元』によると、遼の興宗(こうそう、第7代皇帝)の皇后の父簫孝穆が建てたもので、官式建築です。1尺を29.4㎝とする唐の寸法が使われましたという。内部は撮影禁止。初層に入ろうとしたら中は真っ暗に近く、内部は土壁でその中に大きな釈迦座像と両側に立像があった。
ガイドの屈さんは、三世仏です。左側に過去仏の燃燈仏、右側に未来仏の弥勒ですという。 更に暗いところに、ものすごく急な、古く長い階段があって、見えない中を前の人にぴったりと付いて登っていった。下りる人に間に入られるのが怖かったからだ。使い古された手すりにしがみついて、振り落とされることなく登っていったが、下りる時はもっとこわかった。 単純に計算しても、67m以上もある五重塔なので、1つの層が12mくらいあるのだから。
途中に踊り場でもなく階段の継ぎ目があった。そこは天井裏のような感じだったが、暗くてよくわからなかった。

『中国仏塔紀行』は、初層に裳階(もこし)を付けた中国に現存する最古の木造塔。塔は2段の基壇上に側柱と入側柱を梁によって組み、積み上げた構造で、外観は5層だが、各層間に暗層(天井裏)が設けられており、実際は9層となっているという。
木造では一番高いのだが、高いものを眺めたなあという気がしない。『図説中国文明史8 遼西夏金元』の断面図で見ると上のようになる。
同書は、塔は八角形で、唐代の四角形にくらべ、より安定している。また上から見ると筒が二層重なったような構造は、心柱を周囲に押し広げて、塔の内側に柱を環状に立てたようにしており、空間を広げるだけでなく塔の強度もおおいに増したという。
「上から見ると筒が二層重なったような構造」については、『中国建築の歴史』に平面図(プラン)があった。唐代の四角形の塔というと、西安にある七層の大雁塔しか知らない。そう言えば夫は大雁塔が印象深いようで、八角形の応県木塔や太原の永祚寺にある明代の双塔に違和感があったようだ。 大雁塔は『中国仏塔紀行』によると、唐652年創建、930年再建ということだ。五代十国時代に入っていたのだ。北方民族の遼(916-1125年)が唐代(618-907年)の建築を基本としたのは、『図説中国文明史8 遼西夏金元』によると、契丹人が最初に住んでいたのは簡単なつくりの穹廬(ドーム式テント)でしたが、燕雲十六州を奪ったのち、勢力範囲が今の山西省や河北省北部など漢族居住区にまで拡大すると、見る見るうちに漢文化を吸収しましたという。
いつの時代にも、北方民族は漢族の進んだ文化にあこがれがあったのだなあ。

さて、二層目に登りつくと古い隙間の多い床だった。 階段手すりの角度からも階段がいかに急かがわかる。また、八角形のため、放射状の梁が強さを感じる。入側柱の内側には塑像が安置されているという『中国仏塔紀行』の説明通り、 あまり存在感のない仏三尊像があった。

『図説中国文明史8 遼西夏金元』 は、遼代建築の設計は唐の特徴を受け継いでいるものの、発展した部分もあり、いくつかの重要な変化があらわてれいます。機能面での必要性から、柱の配置は唐代建築の厳格な対称構造をやぶって、ほんらい仏像を置いていた場所を後方にずらし、前方の空間を広げましたが、こうした変化はまぎれもなく、金代の減柱法(げんちゅうほう)や移柱法(いちゅうほう)の先駆けですという。
 仏像の位置が中央からずれているのは記憶にないのだが、床が傾いているのは歩いていてよくわかった。残念ながら現在はこの二層目までしか登れない。
これ以上登れないので、バルコニーに出てみた。地垂木(じたるき)と外側の飛檐垂木(ひえんだるき)と二軒(ふたのき)構造になっている。四角形の建物だと、角は扇垂木(おうぎたるき)になるのだが、八角形だと平行垂木のように見える。しかし、平行に見えるだけで、わからないくらいの角度で扇状になっていないと、八角形を一周することはできない。上の写真にもあるが、先が鋭角に尖った尾垂木が、少しながら現れている。これは他の建物でも見かけて気になっていたものだ。このたびの旅行で、どこで尖った尾垂木を見かけたのだろう。

※参考文献
「中国仏塔紀行」(長谷川周著 2006年 東方出版)
「図説中国文明史8 遼西夏金元」(劉煒編・杭侃著 2006年 創元社)
「中国建築の歴史」(中国建築史編集委員会 1981年 平凡社)
「山西古建築通覧」(李玉明主編 1987年 山西人民出版社)

※参考ウェブサイト
日本すきま漫遊記より組み物の各部の名称
風に吹かれて匠の心意気