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2007/11/12
野中寺(やちゅうじ)の弥勒菩薩半跏像は
野中寺の弥勒菩薩半跏像は、当時のものとしては珍しく銘が刻まれた仏像である。
『日本の美術455飛鳥白鳳の仏像』は、飛鳥白鳳の半跏思惟相の菩薩像が弥勒菩薩として造像されたことは、666年の野中寺像に「弥勒御像」と刻銘されていることで明白という。 ところが、『カラー版日本仏像史』で石松日奈子氏は、朝鮮半島や日本では6-7世紀の作例が多数存在するが、一般的に「半跏思惟像=弥勒菩薩」とみなす傾向が強い。朝鮮半島では三国時代を中心に弥勒信仰が隆盛し、とくに新羅では「花郎(ほあらん)」と呼ばれた青年戦士に対する救世イメージが、未来仏である弥勒の信仰に結びついたと考えられている。しかし、銘文に「弥勒」と記された半跏思惟像は見あたらず、花郎と弥勒の関係はあったとしても、弥勒と半跏思惟像、あるいは花郎と半跏思惟像においても広隆寺宝冠弥勒像、中宮寺如意輪観音像、四天王寺救世観音像など、こんにち伝えられた尊名は一様ではない。ところが大正7年に大阪・野中寺で発見された銅造菩薩半跏思惟像の台座に「弥勒御像」の文字が刻まれていることから、「半跏思惟像=弥勒菩薩」説が有力となり、 ・・略・・ しかし、野中寺像については銘文中の用語や語法の不自然さ、文字が鍍金仕上げ以後に刻まれた可能性などが指摘され、銘文の評価については意見が分かれているという。
京都市立芸術大学の礪波恵昭氏は「野中寺弥勒菩薩半跏像の再検討」で、その銘文には難解な部分も多く、その解釈をめぐって様々な論考が発表されており、古代彫刻史の論点の一つとなっている。発表者は、諸先学の研究をふまえつつ、特に技法・様式について詳細に検討を加え、本像の位置づけを試みてみたい。
まず、技法面では、装飾文様に魚々子鏨を使用しない点に注目する。白鳳期の金銅仏には着衣や装身具などに魚々子鏨で装飾文様をあらわす作例が多く見られるが、本像の装飾文様には魚々子鏨が全く使用されていない。魚々子鏨を用いると簡便かつ鮮明に表現できるように思える箇所でも、通常の鏨を用いて彫りあらわしており、白鳳期の作とみなすときわめて異例である。
様式面では、とくに顔貌表現に注目する。目鼻立ちを顔いっぱいに大きく表し、曲面による構成を生かした顔貌表現が本像の特徴であるが、666年前後に流行した童顔の様式とは大きく異なるという。
他にも、銅板鍍金の別材製とする点や、頭飾の表現などで検証していて、
本像は銘文から比定される666年の制作と考えると技法・様式など多くの観点できわめて異例であり、制作年代を再検討する必要があると思われる。具体的にその年代を考察すると、技法・様式から白鳳期の末期、つまり7世紀末から8世紀初頭を遡り得ない、との結論に達したという。そうなると、この弥勒半跏像が丙寅年(666)であることを前提として、法隆寺献納金銅仏の156号や157号の制作時期を推定する時の基準になってきたことがくつがえされるのではないのだろうか。
まず、156号の丙寅年を野中寺の菩薩半跏像が666年であるとして、作風からそれよりも60年古いものとされているのが変わってくるのではないだろうか。また157号が野中寺より下がるだろうと言われているのも、実際は8世紀初頭以降のということになるのではないか。
また村田靖子氏は「小金銅仏の裳の縦状文様について-野中寺菩薩半跏思惟像との関連-」で、野中寺の弥勒菩薩半跏像が菩薩像としては唯一、同様に両脚部に文様を施している。
野中寺像を初唐の影響をいち早く受けた(岩佐光晴「野中寺弥勒菩薩半跏像について」『東京国立博物館紀要』27 号1992 年)斬新な像と考えれば、あるいは今は失われた初唐の菩薩あるいは半跏思惟像の中に先例があったかも知れない。その傍証としては隋時代の石造菩薩立像の中に野中寺像と同様な半切形の連珠円文の意匠を持つ帯状飾りを腰から下げているものがあることが挙げられるという。
野中寺の半跏思惟像の特異性を初唐の影響と見ているようだ。 野中寺は「のなかでら」ではなく「やちゅうじ」という読み方をするので、その名前は印象深く覚えているのだが、このような他の仏像の制作年代にまでかかわる問題を抱えていたとは。
※参考文献
「日本の美術455 飛鳥白鳳の仏像」 松浦正昭 2004年 至文堂
「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社