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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/11/06

法隆寺献納金銅仏の右脚の衣


広隆寺弥勒菩薩半跏(宝冠弥勒)像の右膝下の出っ張った布のように、衣文が不自然なのは、飛鳥白鳳時代の半跏像に一般的なことで、他にもいろいろある。
『法隆寺献納金銅仏展図録』からみていくと、 

158号 7世紀 20.3㎝
腰から衣がエプロンのように襞もなく右脚にかかっているので、あまり不自然な感じがしない。同書は、宝冠、垂髪、裳なども大胆に意匠化され、全体に平明簡素な印象を与え、半跏思惟像中異色の作風を示している。朝鮮三国時代に制作されたものであろう。この様な作品が手本となって、わが国の飛鳥彫刻が制作されたと考えられる貴重な作例であるという。 156号 丙寅年(606年) 41.6㎝ 
右脚には横に襞のある衣がかかっているが、これは腹部からの縦の線が続いているのではなく、太ももにも同様の襞があり、その襞の線が脚の方にまわっているという不思議な造形となっている。このような衣装を見たことがない人が造ったのだろうと想像する。そして、下にそれとは別の幅広の布が折れて端が出っ張っているのも妙である。中央に垂れているのは帯の端。

おそらく弥勒菩薩として制作されたものであろう。  ・・略・・  三国時代朝鮮の彫刻様式が顕著に認められる作品である。「丙寅年」については606年か666年の両説があるが、野中寺弥勒菩薩像(666年)などとの比較から前説が多くとられているという。 155号 7世紀 41.7㎝
右脚にまといつくように、布がひらひらと翻っている。

『別尊雑記』所収の四天王本尊救世観音像の図像と一致し、本像も救世観音と呼ばれていたと考えられている。  ・・略・・  止利様式の菩薩像に共通する特色を示し  ・・略・・  全体を破綻なくまとめ、細部の表現も入念に仕上げて、飛鳥時代の小金銅仏中抜群の出来栄えを示しているという。 162号 7世紀 30.8㎝
右膝が高く表されているせいか、右脚にかかった衣の襞が、側面で太ももにまわっているのが不自然には感じない。

いわゆる半跏思惟形の菩薩像である。  ・・略・・  全体から受ける印象に飛鳥彫刻に見られたような厳格さは薄れている。7世紀半ば以降に制作されたものであろう。  ・・略・・  なお、両肘の内側から外へ垂下する天衣は別鋳のものをとめているが、左方分は欠損しているという。
菩薩につきもののように思っていた天衣がやっと出てきた。 157号 7~8世紀 28.9㎝
右脚にかかった衣が脚の下ではさまれて、端が榻座に垂れているのが自然な表現となっている。

頭部がやや大きめで、前傾姿勢をとって榻座に坐る形姿は丙寅年銘(666年)を有する大阪野中寺弥勒菩薩像に近いことが指摘されるが、本像の場合は飛鳥彫刻に見られた厳しさは全く消えて、体軀の肉づけや、衣部の質感などに自然味が増しており  ・・略・・ 
という。

薬師寺の薬師三尊像へとつながっていくのかな。 このように小さな菩薩半跏像は、皆失われてはいるが頭光が取り付けられていた。大きな舟形光背に取り付けられた像と違い、背面も省略せずに表されているので、1体1体、周囲をまわりながら、ゆっくりと眺めていくのは非常に楽しいことだった。同展以来、もっとも好きな日本の仏像が飛鳥白鳳期のものとなったように思う。

※参考文献
「法隆寺献納金銅仏展図録」 1981年 奈良国立博物館