お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/07/02

雲崗石窟にアカンサスの柱頭



雲崗石窟の中期窟(第二期、470-494年)は壁・天井全面に装飾がある。ツアーで行ったため、見たいと思っていた装飾モチーフや、仏像そのものをじっくり見るのに十分な時間がなかった上に、清時代の彩色がけばげばしく、集中力に欠ける見学となってしまった。
そんな中で、四門塔・三重塔・五重塔のほかに、妙な塔があるなと思ったものがあった。後日写真で確認すると、それは塔というよりは、建物の柱に、仏塔と同様に仏像や人物像を表したものだった。

8 雲崗石窟第9窟前室北壁明窓西側 
角柱に二重の三角垂飾のある段が5つあり、それぞれ踊る人物が2名配されている。柱頭は5段の唐草文様があり、柱頭を2人の大きな人物が踏みしめているのだが、足の間から頭光のある顔が出ている。足と顔以外の白いものが何かわからないのだが、『中国石窟 雲崗石窟2』 や『雲崗石窟』にある写真から、明窓東側の柱頭上部にはアカンサスの葉が配されていることがわかった。9 雲崗石窟第10窟前室明窓西側
柱の上部には左右対称のアカンサスの葉と、中央に人物が顔を出していた。頭光はないように思う。その下に柱頭があるように見え、この柱が何かを支えているというのではなさそうだ。10  雲崗石窟第10窟前室西壁第2層
楣拱龕のそれぞれの拱額の中に1体ずつ飛天が舞い、その両側を角柱が支えているのだが、壁に阻まれて、北側の角柱しか写せなかった。その角柱を支えているのはアトラスで、角柱は3層の三角垂幕を柱で支え、その中の龕に仏坐像がある。そして角柱の上部にはっきりとアカンサスとわかる葉が上の梯形屋根を支えているので、これは柱頭の装飾としてのアカンサスだろう。そのアカンサスの間から、人の顔と思われるものが浮かんでいる。 11 雲崗石窟第12窟前室北壁栱門東側
角柱というよりも、仏龕のある3層の塔に近いが、上部は相輪ではなくアカンサスと人物が配されている。このアカンサスもしっかりと楣拱龕を支えている。西側の人物は上半身を現し、東側にはアカンサスの上に座ったように見える人物がいる。 これらは、アカンサスは東へで見てきたような柱頭装飾が東へと伝わった確かな証拠だろう。

12  雲崗石窟第12窟前室列柱 
前室列柱の外側は風化して残っていなかったが、内側には千仏のように整然と仏龕が並んだ多角形の3面がよく残っていて、その基部にアカンサスの葉と、間に踏ん張って両側の葉を引っ張っている人物が表されている。これはアカンサスと人物の柱頭から応用した意匠なのだろう。13 雲崗石窟第7窟後室門拱東側
上部に何があったか覚えていないが、撮影禁止のこの窟を去る時、アカンサスの間に人物がいる意匠はしっかりと覚えていた。上には支える屋根のようなたぐいの物はなかったと思う。
『雲崗石窟』の解説(山崎淑子氏訳)によると、第二期の中で開鑿年代の最も早い双窟(7・8窟)なのだそうだ。とすると、雲崗石窟にアカンサスと人物という意匠が出現した、最初期にこのような力強い表現なのは、それを伝えた工人が作成したのかも知れない。なんとなく西方的な空気の漂う作品である。下の三角垂幕と共に『雲崗石窟』の裏表紙中央に印刷されていることが、数あるアカンサスと人物の意匠の中でも特別なものであることを示しているように思う。 ガンダーラから中央アジアへ伝播したアカンサスと人物の柱頭はどこをどのように通って雲崗石窟へと伝わったのだろうか?その間のものが思い浮かばないなあ。
また三角垂飾については法隆寺金堂天蓋から 1敦煌にもでどうぞ。

※参考文献
「中国石窟 雲崗石窟2」 1994年 文物出版社
「雲崗石窟」 山西雲崗石窟研究所・李治国編 1995年 人民中国出版社