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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/06/29

10世紀の魚々子



唐が滅亡しても各国で魚々子は続いたようだ。魚々子だけではなく唐の文化にあこがれがあったため、唐風の後継者となったらしい。
『世界美術大全集東洋編5五代・北宋・遼・西夏』は、五代の国々は唐の崩壊と混乱のうちに興亡するのであるが、それぞれが前代の文化を吸収することに熱心であった。また、遼の陶器、車馬具、銀器、青銅器に唐の影響を数えはじめたら、きりがない。遼、呉越、前蜀などが受け継いだ唐風はすでに衰えはじめた残映であり、充実しつづける国力と人民の活力が生み出した重層華麗な様式ではなかったが、薄い造りの銀器、もとの形がわからないほどに写し崩れた唐草文様、それらやや脆弱怯懦な形式は、やがて宋時代の繊細かつ鋭敏な、思索的な様式の母胎となるという。

銀鍍金鐙形壺 遼(10世紀) 内モンゴル自治区赤峰市洞後村窖蔵出土 高26.0㎝底長21.0㎝ 赤峰市文物工作站蔵
同書は、唐時代後半の製作技法、文様編成を踏襲しながら、あわせて遊牧民契丹族の生活と民族性、近世の銀器の特性などを一器に体現した遺品である。
中央の菱形の枠の中の鹿と岩山の図も、唐時代後半の吉祥を意味する絵模様を写したものである。浅くまばらな魚々子や細い刻線に現れた鏨使いも、唐時代後半と変わらない。
陶磁器では鶏冠壺と名づけられるこの形は、もともと遊牧狩猟の馬鞍にくくりつけて携行する革袋に由来する。革袋を意匠にした器物は、戦国時代以来、青銅器、陶磁器にしばしば登場するが、それらが流行したのが、いずれも中国が遊牧民と深い交渉を持った時期と一致するところが興味深い。
成形のために銀の板を熔接した痕跡、紐通しの孔にはめこんだ補強の輪の繋ぎ目などに現れた細部にこだわらない作りも北辺の製作の特徴であるという。
では、前回に見た契丹の魚々子は、唐から来た工人の制作だったのだろうか。
銀宝相華文鉢 五代 前蜀(10世紀) 四川省成都市王建墓出土 高8.7㎝径18.5㎝ 四川省博物館蔵
唐時代の末にかけて、経済と政治の衰退に合わせたように銀器は薄造りになり、宋時代には銅をまぜ、なおかつ薄い碗、杯、皿、瓶などが普通になる。薄胎ゆえに魚々子を打ち詰めることがむずかしくなり、刻線も細く、浅くなるという。
土器のような銀器で、魚々子も花文もの中にだけ打たれている。解説通りの造りで、唐風のかけらもない。
金高僧図舎利棺 北宋(10世紀) 河北省静志寺真身舎利塔塔基地宮出土 高4.8㎝長7.7㎝ 定州市博物館蔵
全体は底板、両側板、屋根、前後の板からなり、鎚鍱、鏨彫り、切り抜き、溶接などの技法が使われている。屋根には魚々子地に唐草文が刻まれているという。
舎利容器なのに、台座の格狭間透かしの形も切り方も雑で、屋根の魚々子の打ち方がそれで推し量られる。
これだけの作品で判断するのは強引かも知れないが、「契丹展」に出されていた作品の魚々子は細かく、10世紀前半の東アジア大陸部では、最も技術の高いもののように思われる。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館