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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/05/24

北野天満宮展 束帯天神像は忿怒相


菅原道真は日本では初めて神格化された人物である。
『日本の美術479』は、奈良時代末に始まるとされる神像が、その神性を表現するのに人間の姿を借りたのは仏像の影響といわれるけれど、八幡神をはじめ祖先神・地域神などどれも特定の人物をあらわすことはなかった。神のあるべき姿としてのきまりごとはあったにせよ、具体的に誰それを髣髴させるのでなく、個々の具象を捨てた抽象的なものでよかったのである。そのような初期神像の行われたのは8世紀末から9世紀全般にかけてであったが、その最終段階に位置する熊野速玉大社神像も、祖先神らしい威厳をもちながら特定の個人を表現したとはいえない。
故人を恐れうやまうのは誰にでも自然な感情であろうが、それを国家や氏族レベルで行うとなると、廟が建てられそこに奉祀される対象が必要になる。本格的な礼拝対象となった初期の例として菅原道真を考えてみよう。

菅原道真(845-903)は宇田・醍醐天皇に重用された官吏だが、延喜元年(901)藤原時平の中傷のため太宰府に左遷され、そこで没した。しかし同9年、時平が39歳で急死、延長元年(923)保明親王が夭折し、さらに延長8年(930)に宮中清涼殿に落雷、病に臥した醍醐天皇もまもなく崩御する。それらのできごとは道真の怨霊のしわざとみなされ、恐れられた。やがて天慶5年(942)右京七条に住む多治比奇子(あやこ、文子)に道真の託宣があり、また同9年または10年、近江国比良宮の禰宜神良種の子太郎丸にも同様の託宣があり、それをうけて10年、北野の右近馬場に天満宮が創設された。
太郎丸にあった託宣は、「我が像を作りて、笏は我昔もちたりしあり、それを取らしめよと仰給なり」とあり(『北野天神御神託記文』)、生前使っていた笏を執る像容が求められたものであった。当然これは彫像のはずであり、その姿は、北野宮曼荼羅図(北野天満宮蔵、室町時代)の本殿内に描かれた、笏の上下を手で執る束帯姿の道真像に近いものだったと想像される。後世いうところの怒天神である。つまりここに、神格化された故人をまつる神社、およびその神体として近過去の人物肖像が出現したのである。これを肖像と呼ぶのに異論もあろうが、対看写照にもとづく写実的な肖像ではなく、特定の個人でありながら神威をも備えるという意味での肖像であるという。
現存最古の天神像は鎌倉時代のもの。

束帯天神像 根本御影 鎌倉時代(13世紀) 縦84.3横34.3㎝ 絹本著色 北野天満宮蔵
北野天満宮 信仰と名宝 天神さんの源流展図録』(以下『天神さんの源流展図録』)は、彫像や絵像で天神の姿を表現することは平安期に始まるとみられるが(『扶桑略記』天慶4年所収『道真上人冥途記』など)、その出現の契機や時期は明らかでない。ただし遅くとも鎌倉初期には絵像の存在が記録され(『明月記』元仁2年3月4日条)、貴族社会における主要な社の一柱として天神像が比較的早くから図像化された可能性はある。
根本御影は、着用する束帯が古様な萎装束である点で、平安期に祖本が成立した「板絵神像」(薬師寺)などとの表現の類似が指摘される。吊り上がった眉や歯を覗かせて開口する表情は説話に基づく忿怒相の表現で、天神ならではの表象として、後世に広く踏襲されたという。
現在は学問の神さんと親しまれているが、鎌倉時代ではまだこんな忿怒相として描かれてた。 

竜田明神画像 鎌倉時代永仁3年(1295) 南都絵所堯𠑊(ぎょうごん)筆 薬師寺蔵
『日本の美術18』は、南都薬師寺の鎮守として有名な、休が丘八幡宮の社殿にかかげられていた板絵着色神像画の一つ。永仁3年に、古くからあった障子絵に基づいてこの板絵を作ったと、裏銘に書いてある。竜田明神は四脚の床座にすわり、背後には美しい紅葉を描いた障屏を立て、少し剥落してはいるが立涌文様、うす色の袍をつけるまことにおだやかな貴紳の姿。一個の大和絵肖像画としても優れた作品であるという。
着衣や笏・刀などの描き方は共通するが、顔は穏やか。天神像の怒りをあらわにした表情は特異なものだ。

北野天神縁起絵巻 承久本 天拝山 鎌倉時代(13世紀) 北野天満宮蔵
『天神さんの源流展図録』は、筑紫において道真公は、自らが潔白であるという祭文を作り高山に登り、7日間にわたって無実を訴えた。すると祭文は天高く舞い上がり、祈りが通じ、道真公は「天満大自在天神」となったという。
鎌倉時代には、道真公が生前に神となったとされていたようだ。こちらは菅公の表情まで読み取れない。

その後も天神像は描き続けられ、正面向きの立像なども多く描かれた。同展でも数点展示されていたが、

北野曼荼羅 室町時代(15世紀) 縦125.8横73.3㎝ 絹本著色 京都 北野天満宮蔵
同展図録は、室町時代の北野社社頭・境内の景観を描いた作例として確かに北野社の絵図ではあるが、本殿内の束帯天神像が他を圧して描かれ、また画面上部の天上に円相内五尊(不動明王・釈迦金輪・薬師如来・愛染明王・慈恵大師)があるのも、いわゆる垂迹曼荼羅型の図であり「北野曼荼羅」と呼称されるにふさわしい。本殿とそれを囲む廻廊を画面やや上方中心に置き、その向かって右には法花堂や大塔・鐘楼など仏教に関わる建物が描かれるが、左には毘沙門堂や朝日寺もあって、当時の神仏習合の社頭の様子が丁寧に描かれるという。
当時北野天満宮には多宝塔もあったのだ。
この面貌は忿怒相なのだろうか、正面を見据え、笏を両手を上下にして持つ。
室町時代ともなると、菅公は学問の神さんになっていたかな。

北野天満宮展 北野天神縁起絵巻の雷は截金← →神像を遡る

参考文献
「北野天満宮 信仰と名宝 天神さんの源流展図録」 2019年 京都文化博物館
「日本の美術479 十世紀の仏像」 伊東史朗 2006年 至文堂