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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/05/28

神像を遡る


せっかくなので、神像について古いものを探すと、

八幡三神坐像 平安時代 東寺蔵
『日本の美術457』は、現存する神像の中で最古例に属するといえるのは、東寺の鎮守八幡宮に伝来した八幡三神坐像である。『東宝記』(南北朝)によると、東寺草創の時に、平安京の鎮護のために八幡神を勧進したが、この時には勧進のみで御神体は安置しなかったという。その後、薬子の変に際し、嵯峨天皇は空海と密談して八幡神に願を立て、成就の後、弘仁年中(810-824)に勧進した。その時影現した八幡三神と武内宿禰を、空海は初め紙形に写し、その後木像に刻んだ。八幡神を僧形の木像として安置したのは当社がその最初である。
本像は八幡神の左右に女神像を配する形式をとるが、八幡神像は剃髪し、衲衣に袈裟をまとい、右足を外に結跏趺坐する。
三軀ともに、頭体幹部を通して針葉樹の一材から彫出するが、いずれも木心部にウロのある材を用いているために、その影響が及んだ面部や胸部、腹部に別材を矧いでいる。そのウロの状態から、これら三軀は同一の木を用いていると見られることは注目され、用材となった木は何らかの由緒をもつ神木や霊木であったと考えられる。 
上瞼を直線的に、下瞼を弧状にした目の形、ややなまめいた表情などは真言密教系の木彫に通じ、乾漆像を思わせる脚部の太い衣文表現なども同様であるという。
神功皇后及び別の女神像 
同書は、女神像は髻を結い、髪を両肩前と背後に振り分けて垂らし、袍衣と背子を着け、右足を外に結跏趺坐する。その坐勢は仏像と共通し、造形化に当たって仏像が参照されたと考えられるという。
『日本の美術18神道美術』は、衣装は唐服、手は左に持物、右に印相を結び、結跏趺坐する姿、彫法や衣文にはやはり当代の仏教彫刻と似かよう点が多いという。
若宮八幡神像 東寺蔵
同書は、やや小さいが、冠をいただき笏を構える裸形の神像、これはもと衣装を着せて奉安するものでそのためにきわめて痩身に造られている。日本の裸形像としては恐らくここらが一番古いものだとみてよかろうという。
 
八幡三神坐像 平安時代・9世紀 木造彩色 奈良薬師寺蔵
『日本の美術457』は、本像は薬師寺の鎮守の八幡神社に祀られているが、当社は寛平年中(889-898)に薬師寺の別当栄紹大法師によって勧進されたと伝える。僧形八幡神像を中央にして、左に神功皇后像、右に仲津姫命を配するという。
『日本の美術18』は、貞観期の一木彫、彩色像で、わが国の神像彫刻としては最古の遺品とみなされるものであるという。

僧形八幡神像 像高38.8㎝ 
『日本の美術457』は、八幡神像は衲衣に袈裟を着け、両腕を屈臂して左手は掌を上に向け、右手は膝の上で掌を伏せて坐す。
彫り自体はやや渋滞が見られるものの、特に八幡神像には翻波や渦文、茶杓形を交えた力強い衣文表現が見られ、奈良の地で培われた木彫の伝統が反映されているように思われるという。
『なら仏像館名品図像』は、仏教に帰依し出家した姿に表され、初期の神仏習合の様相を見せているという。
穏やかな面貌で表されている。
神功皇后像 像高33.9㎝ 奈良薬師寺蔵
『なら仏像館名品図像』は、二軀の女神像は唐風の俗体形という。
『日本の美術457』は、豊かな髪を左右に分け、両腕まで垂らし、さらに頭頂で束ねて背面の腰辺まで垂らしている。大袖の衣と背子、裙を着け、左足を立てて坐しているという。
『日本の美術18』は、装束はいわゆる唐服(唐衣装姿、からぎぬもすがた)である。胸元から垂れた領巾(ひれ)や着衣には、美しい花文の彩色もみえる花やかな彫像だが、やはり容貌にはいかつい森厳さをたたえる。
神社建築の整備にともなって、以後の神社儀礼には全く宮廷的な要素を濃くしてくる。神像そのものが、こうした影響の中からまず生まれ発達をとげるに至ったわけだから、おのずと神像にはその時代の風俗を反映しているものが多いわけである。薬師寺の女神たちも、そうした時代の風俗を示すものにほかならないという。
仲津姫命像 像高36.8㎝ 奈良薬師寺蔵
同書は、仲津姫命の姿も神功皇后像と同様であるが、右足を穏やかに立てて坐す形とする。東寺の像が三体とも結跏趺坐して整然とした趣があるのに対して、本像ではその坐勢がより自由なものとなっているという。
神功皇后像とは衣装も変え、着衣の文様も丁寧に描かれている。

三神坐像 9世紀 京都松尾大社蔵
『日本の美術457』は、三神像のうち、二軀が男神像であるが、いずれも幞頭冠をかぶり、袍を着け、両手で笏をとって坐すが、その姿は老年相と若年相に区別して表されている。
三軀ともに、脚部を除く頭体幹部を針葉樹の一材から彫出し、内刳りは施していない。いずれの用材にも節が多く、あえてこうした材を使用している背景には、何らかの由緒のある木を伐採した可能性が考えられる。さらに、各像ともに、木心が頭体の中央前寄りを通ることから、いずれも同一の木から木取りされた可能性が指摘されている。
いずれも奥行きと量感のある堂々とした姿を示し、衣文の彫りも深く鋭く表現されている
という。

男神坐像 老年相 像高97.3㎝
菅公のような忿怒の相ではないが、険しい表情をした神である。
『日本の美術18』は、神道宗教の思想には、若宮とか童子神に対するいわば「いのち」のあこがれといった理念がある反面、同時にまた枯淡で東洋的な神仙の姿に迫ろうとする願望をみることができる。翁の仮面が、神の心と姿をそのままに表すと信ぜられているごとく、神道図像の中には枯れきった老境を示す男神の像を多くみいだす。この松尾社男神像の表情にもそうした意味でのマジカルな神秘感が、強烈な現実感とまじりあっているという。
男神坐像 若年相 像高96.4㎝
『日本の美術457』は、『長秋記』長承元年(1132)6月3日条によると、当時、松尾大社の神宮寺に智証大師円珍が造立した御正体があったとこが知られる。本三神像は同社神宮寺伝来といわれており、『長秋記』に語られる円珍造立の御正体に当る可能性が高いと考えられるという。 
女神坐像 像高87.6㎝
同書は、頭髪を両腕前と背面に振り分けて垂らし、大袖の衣と背子、領巾、裙を着け、両手で持物をとって坐す姿に表されるという。
『日本の美術18』は、日本でも古代の土偶は豊満な女性像をかたどって、原始的な生産神としてきたし、埴輪の世界でも巫女のような神秘な女性像が製作されている。こういう思想がやがて神道宗教の世界における比咩神(比売神・姫神)信仰へと発展する。この松尾社女神像の表情には、ミステリヤスな神道像と重厚な密教像とのかさなりあいが見られる。9世紀なかばの作品という。

奈良国立博物館の本館、現なら仏像館名品館では男女神像が展示されていて、なんとなく斜に構えた神さんに見えて、行く度に興味深く眺めたものだった。

男女神坐像 平安時代(12世紀) 奈良国立博物館蔵
『なら仏像館名品図像』は、一対の男女神像で、ともに針葉樹(ヒノキか)の一木造。
奈良時代に出現した神像は平安時代に定着したが、多くが正面向きに威儀を正す様に表されるのに対し、この二像は顔を横に向ける動きのある個性的な姿を示すという。

男神像 像高40.0㎝
同書は、男神像は袖先を別材製とする(亡失)。袍を着し、笏(亡失)を握る官人の姿で、風貌は壮年のそれであるという。
斜め向きで、忿怒とまでは言えないが、不満そうに口をゆがめ、目を見開いている。衣装は違うが、天神像に繋がる表情のようにも見えるのだが・・・
女神像 像高38.9㎝
同書は、女神像は和装の姿、左手は袖の中に入れ、右手で垂髪をまさぐるかのようなポーズを見せる。福々しい頬が印象的という。
顔は福々しいが、口は尖っている。
年月を経て風化した木の年輪が浮き出て、左肩は衣文線が並んでいるかのような凹凸を見せる。

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                →明恵の夢と高山寺展 善財童子は善知識を訪れる

参考文献
「日本の美術457 平安時代前期の彫刻」 岩佐光晴 2004年 至文堂
「日本の美術18 神道美術」 景山春樹 1967年 至文堂
「なら仏像館 名品図録」 2010年 奈良国立博物館