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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/02/07

味鄒王陵地区古墳公園(大陵苑)に異国の煌めき


王妃の墓とされる皇南大塚北墳からは、金冠の他に金製の腕輪も出土している。

金製嵌玉釧 5世紀後半 金・藍色玉・青色玉 径7.0㎝ 国立慶州博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、幅3㎝の薄い金板の上と下の端を巻いて断面円形の箍(たが)状の縁を作った幅2.1㎝の腕輪である。左右の端は別の板を裏からあてがい、鋲で留めている。箍状縁のあいだには金板1枚を別に重ね、その上に金細線や粒金を鑞付してさまざまな形の区画を作り、そこに玉を嵌め込んで装飾としている。
夫人の左の腰の位置から、帯金具と重なって金製環状釧5個と玉類を連ねた釧とともに出土した。  ・・略・・  この釧も北方からの移入品であろうか(韓国宝物623号)
という。
確かに北方騎馬遊牧民の金と貴石の象嵌細工みたいやし、細かい粒金細工やなあ。  皇南大塚がある大陵苑は、味鄒王陵区とも呼ばれている。大陵苑には、柵で近づけない味鄒王陵を初め、大型の積石木槨墳が今でもたくさん残っているが、『韓国の古代遺跡1新羅』によると、どうもそれらの大墳墓の周辺には、小さな古墳がたくさん築かれていたらしい。
1973年の味鄒王陵地区古墳公園(大陵苑)公園計画にともない、13の地区および鶏林路(ケーリムノ)一帯の発掘調査が行われた。従来の知見をくつがえす多槨(葬)墓・竪穴式石室・甕棺墓など多種多様な構造の墓制が発見され、豊富な遺物が出土し耳目を驚かせたのであった。年代的に5世紀後半~6世紀後半の古墳群である。構造的1墳丘に1基の槨の築かれた単槨墓に対し、複数の槨をもつ多槨墓が明瞭となった。そしてさまざまな要因によって、削平された古墳がいかに多いかをものがたっているという。
本来は大古墳の周囲には小墳墓が密集していたのか。そういうと、南側の入口から味鄒王陵あたりまでは森になっていて、下側には小さな古墳がポツポツあったのには気がついたけど、それ以外にきれいに整備されたところにもたくさんあったとは思いもよらなかった。
削平されてはいても多くの埋葬施設・遺物が発見されるというのもすごいなあ。 大陵苑の東側に通る道路は鶏林路という。『黄金の国・新羅展図録』は、墳丘が失われた小型の積石木槨墳と甕棺墓など約100基の古墳が確認されたという。鶏林路古墳群ともいうらしい。

装飾宝剣 6世紀 金・瑪瑙製 長36.0㎝ 国立慶州博物館蔵  
鶏林路14号墳は、鶏林路古墳群の中の1基である。14号墳は、長さ3.5m、幅1.2mに過ぎない小型の積石木槨墳であるが、王陵級の大型古墳の出土品に匹敵する華麗な副葬品が出土した。
特に被葬者の腰部付近から出土した、金に各種宝石を嵌装した装飾宝剣は、剣鞘の表面に薄い金板で外廓をもうけ、その中に円形や木葉形に整形された澄んだ深紅色の紅瑪瑙を嵌入して装飾している。中国新疆ウイグル自治区、カザフスタンなどでも、この装飾宝剣の類例が確認されており、キジル石窟の壁画には装飾宝剣を着装した姿が描かれている。この宝剣のように、金色と瑪瑙の赤色を調和させた多彩色技法は、フン族のアッチラ帝国で大いに流行したもので、ドイツから西シベリアまで広く分布している。遠く東ヨーロッパや西域で流行した多彩色技法で製作された装飾宝剣は、当時の新羅が、国際交流を活発に主導していた中国・北魏と緊密な関係をもっていたことを示す好資料である
という。
この作品も大小の粒金が嵌め込まれている。鞘頂部の三つ巴の文様の1つ1つに花の茎と蕾のようなものがあって面白い。
慶州の大きな墳墓にも副葬されていない珍しいものが、こんなに小さな古墳から出土した。何かの功績で王が下賜したのだろうか。6世紀ともなると、新羅への高句麗の影響から脱し、北魏と親交があったらしい。
フン族の装飾宝剣はこちら
国立慶州博物館では展示されていなかったが、MIHO MUSEUMで始まった2009年春季特別展「ユーラシアの風 新羅へ」で見ることができた。想像していたよりも小さなものだった。 もう1つの有名なのはこのトンボ玉だろう。

瑠璃・玉製首飾りうち中心の蜻蛉玉 直径1㎝ 5~6世紀 国立慶州博物館蔵
第6地区2号墳は1号墳に先行して築造されたようである。墓槨は4.2X2.4mの積石木槨墳である。
4号墓は、主槨に平行して副槨がある。主槨から装身具・馬具・工具・土器、副槨からは多量の土器と稲籾が出土している。主槨出土の頸飾りは瑪瑙・水晶・碧玉・瑠璃製の勾玉・丸玉・管玉・切子玉と象嵌瑠璃玉からなる。コバルトを下地として白・赤・黄・青・緑色で、2人の人物・6羽の鳥が表現されている。類を見ない造形である。
このガラス玉は西方からもたらされた。異国の人物像と花鳥文は西域独特のモチーフである
という。
西方と西域ではだいぶ違うが、北方騎馬遊牧民がつくったものではないだろう。ローマ帝国の広大な版図のどこかで作られたものだと思う。
それにしても、現在までの出土物では慶州で唯一という珍しいトンボ玉が、こんなに小さな墓に副葬されていたとは驚く。
このトンボ玉も国立慶州博物館では展示されていなかったが、MIHO MUSEUMの同展で展観されていた。しかし、直径1㎝なのでこんなによくはわからなかった。  この時代の慶州は、さまざまな異国から将来された宝物が満ちあふれていたようだ。

「ユーラシアの風 新羅へ」展はMIHO MUSEUMの後、岡山市立オリエント美術館古代オリエント博物館に巡回されるらしい。

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)