アケメネス朝ペルシアがアレクサンドロス大王に滅ぼされてから、粒金細工はどうなっていったのだろう。ペルシア近辺の地図はこちら
イヤリング 金 高3.3㎝幅2.8㎝ 前5~4世紀
『古代バクトリア遺宝展図録』は、中央にエジプト起源の婦人の守護神ベスの顔面を配し、その周りに花弁状の象嵌用座金が放射状に巡り、下部には石榴形の垂飾を6個付けている。アケメネス朝時代にはベスの表現は、エジプトよりもペルシアで頻雑に見られる。この意匠はオクサス遺宝の四頭立て馬車の前面の装飾に見られるという。四頭立て馬車はこちら
粒金はイヤリングの輪郭に3粒ずつ付いているように見えるが、垂飾を見ると、3つの金の粒の上に1つのっているようだ。

細粒で装飾された3個の多面体と2つの環でペンダントを作っているという。
粒金だけで構成された面でないのは、透けていないことからわかる。地金に鑞付けしたのだろう。ところどころ1粒はずれている。それともないところを中心に周りに金の粒をめぐらして文様を作っているのかも。

算盤珠状の連珠環に細粒の装飾を施し、開閉器を付けているという。
イヤリングの大きさからみても、金の粒はかなり小さい。このように立体的なものに金の粒を一列に巡らせていくのは、凹みとはいえ粒の大きさからするとかなり深いので、鑞付けの技術はかなり高かったのではないだろうか。

アレクサンダー大王の死後、これらの植民の内2万名以上が蜂起し、ギリシャに帰ろうとしたが失敗に終わった。この数字だけでも植民の規模が窺えるというように、バクトリアはギリシア人が多く住む土地となった。
大王死後はセレウコス朝シリアの一部となり、前261年に独立、バクトリア王国となるが前192年に滅ぶ。そのようなとろに粒金細工は受け継がれていったのだ。
不思議なことに、アルサケス朝パルティアやサーサーン朝には見出すことができなかった。
※参考文献
「古代バクトリア遺宝展図録」(2002年 MIHO MUSEUM)
「ラルース 世界歴史地図」(ジョルジュ・デュルビー監修 1991年 株式会社ぎょうせい)