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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/02/16

路東洞路西洞の平たく削られた古墳から豪華な副葬品-瑞鳳塚

 
金冠塚のそばから路西洞古墳群に入っていくと、右側に金鈴塚よりも低く広大な土壇がある。というよりも、ほぼ地面と同じレベルなので歩いていても気づかない。

路西洞 瑞鳳塚 5世紀中葉
『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、発掘を視察・参加したスウェーデン(瑞典)のグスタフ・アドルフ皇太子の国名の「瑞」と出土した金冠の鳳凰飾りにちなんで「瑞鳳塚」と名づけられた。
墳丘の規模は径36.3mで、その高さは10m以上と推定され、金冠塚に接するほどになるという。封土のすべてを取り除くという全面発掘がなされたため、従来明瞭でなかった点が解明されている
という。
金冠塚は右端の向こうで見えていない。瑞鳳塚は現在双円墳の墳丘跡として残されている平面よりも、封土の分だけ膨らんでいたので、金冠塚まで迫るほどだったらしい。

削平され畑地となっていたが、南北の長径52m余、東西の短径35m、高さ7mの楕円形を呈していたという。1926(大正15)年に小泉顕夫によって発掘された。墳丘の周囲に、幅1.8mの帯状の外護列石がめぐらされた瓢形墳で、北墳ののちに南墳が造られていた。発掘は北墳のみおこなわれたという。
しかし発掘の後は住宅地となっていたらしい。瑞鳳塚に沿って歩いたが双円墳だとは気づかなかった。そういえば路西洞古墳群には双円墳がもう1つあった。 地山層を掘り下げ、東西4.7m南北3.7mの木槨、内部に東西3.8m、南北2.0mの木棺を納める。木槨の下層は掘削した地山上に褐色粘土を敷いて平らにし、偏平な割石を二重に敷き、その上にバラスを10㎝ほどの厚さに敷いて基礎としており、さらに多量の朱(酸化鉄粉)が散布していたという。朱を全面に塗布したのち木槨を組み、積石し、その表面を粘土でおおったのであるという。
今まで新羅の古墳について調べていて、「基礎全面に朱を塗布する」ということが明記されたものは、この瑞鳳塚だけである。日本の古墳にあるはずだ。藤ノ木古墳の石棺に、外側も内側も朱が塗られていたが、6世紀後半とされているので、瑞鳳塚の方がずっと早い。日本では魔除けだと思うが、瑞鳳塚の場合はなんのためだろう。
木槨内は盗掘もなく完存していた。硬玉・瑠璃製の勾玉で飾られた金冠・金製勾玉・魚形などの装身具、瑠璃碗・瑠璃杯、青銅鐎斗、漆匙、銀製盒が出土しているという。

金冠 高30.7㎝
「金冠の鳳凰飾り」はどこにあるのだろうか。この金冠には頭の形のような金の針金が見える。そして中央の「山」字形の立飾から、歩揺のついた何かが見え隠れしている。
北燕、遼寧省、憑素弗墓(太平7年、415)出土の金歩揺冠に似ているが、これが鳳凰の形をしているのかどうか。
『国立慶州博物館図録』は、その内側に内冠を形どっていることが特徴である。揺帯で内帽形の骨格を作り、幅約1㎝の薄い金板2枚の立飾りを十字形に交差させ、その先端には鳳凰とおもわれる三羽の鳥が枝に止まっている様子を表現した装飾がそびえ立っている。このような形の内冠は現在まで知られているものには、類を見ない独特の形式のものであるという。
針金状のものは内冠というらしい。 玉類 ガラス・水晶・オニキス製 5世紀
『黄金の国・新羅展図録』は、数量からみて首飾よりは釧として用いられたか、それぞれ別の装身具に装飾品として用いられたものの集合体とみられるという。
下中央の緑色勾玉から2つ右に藍色のトンボ玉がある。小さな黄色の斑点がある。そして上中央の青色のガラス玉の左側に金層ガラス玉がある。解説には「黄色丸玉」とあるが、私には金層ガラス玉にみえる。『韓国の古代遺跡1新羅篇』は、銀盒には、細い針のようなもので銘文が刻まれていた。「延寿元年辛卯」につくられたもとわかる。高句麗長寿王39年(451)と考えるのが有力である。古墳の編年問題に関係して、崔囗鉉は銀盒の製作年代と埋葬年代をほぼ同時ととらえ、瑞鳳塚を5世紀中葉に位置づけるという。
5世紀半ばといえば、皇南大塚南墳と同時代になる。同じ頃に2人の王が亡くなったのだろうか。

双円墳についてはこちら
金層ガラス玉についてはこちら

※参考文献
「韓国の古代遺跡1 新羅篇(慶州)」(森浩一監修 1988年 中央公論社)
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 (2004年 奈良国立博物館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「いまこそ知りたい朝鮮半島の美術」(吉良文男 2002年 小学館)