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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/06/28

長持形石棺から家形石棺へ


桜井市兜塚古墳(5世紀後半-6世紀初)は前方後円墳で、後円部に石棺が露出していた。
蓋が家の屋根のような形をしていて、蓋長側辺に左右一対ずつ、痕跡からみて短側辺に一つずつの繩掛突起があったようだ。
身は刳貫式で浅い。
山本ジェームズ氏の畿内家形石棺にみる棺蓋短側辺突起の変化は、畿内家形石棺の棺蓋突起の起源に関しては、多くは古墳時代中期に盛行した長持形石棺に求める見解が一般的であったという。

長持形石棺 古墳時代中期初頭(5世紀初頭) 宮山古墳出土 246m 1950年発掘 奈良県御所市室(兜塚古墳からは南西に16㎞ほど) 
『ヤマトの王墓』は、長持形石棺をおさめた竪穴式石室と、その上に並べられた形象埴輪群の様子が明らかにされたという。
家形石棺ではなく長持形石棺と記されている。
以前に橿原考古学研究所付属博物館の常設展示でこの模型を見ていたが、長持形石棺という言葉は頭に入らなかった。
長持というと蓋が平らなのに、この石棺の蓋にはカマボコのような盛り上がりがある。その上、矩形の区画が両斜面に4つずつ浅浮彫されている。
『古墳時代のシンボル』は、長持形石棺は組合せ式のもので、近畿地方中央部、のちに畿内と称される大和・河内・山城・摂津を中心とした範囲に集中する。石材は兵庫県加古川流域に産する竜山石(流紋岩質凝灰岩)がほとんどに用いられている。蓋は蒲鉾形で長側辺・短側辺に円柱状の突起をもつという。
埴輪(実物)も並んでいた。
確かに同館でも長持形石棺とされている。
4世紀後半のメスリ山古墳では棺は出土していないが、おそらく4世紀初頭の桜井茶臼山古墳と同じく木棺だっただろう。
ところが4世紀末になると長持形石棺が出現している。

長持形石棺 4世紀末 津堂城山古墳出土 藤井寺市 古市古墳群
『古墳時代のシンボル』は、古市古墳群で、最も古い大型墳の埋葬施設が1912年(明治45)に神社合祀の建碑の際に見つかった。凝灰岩製天井石内面には朱が塗られ、なかに竜山石製石棺があった。
長持形石棺は奈良県天理市櫛山古墳、大阪府藤井寺市津堂城山古墳例が古い。古いものほど精巧で、新しくなるとそれぞれの約束事がくずれて粗雑になるという。
宮山古墳よりも細かな区画が浅浮彫され、繩掛突起には重圏文も浮彫されている。
そして、木棺の頃と同じく、遺体を頭部がほぼ北側になるよう石室が造られている。
宮山古墳の模型を見て石板を組み合わせて造ったものとは気付かなかったが、この図で長持形石棺が部品を組み合わせて造ったものであることを理解できた。
加工した板状の石板を、まず底部、続いて両長側辺の板石を置く。長側辺のに彫り込んだ凹みに短側辺の板石を嵌め込み、遺体や副葬品を安置して蓋石を被せるという順序で良いかな?

『古墳時代のシンボル』は、ていねいで凝ったものは、その品物が流行するピークのときにもたらされると考えられがちだが、そうではなく、凝ったものはその初期にあらわれることが多い。凝ったものから省略されて、くずれていくのがつねであるという。

石室と石棺 5世紀前半 仁徳陵古墳後円部 大阪府堺市百舌鳥古墳群
同書は、仁徳陵古墳がつくられた5世紀前半、畿内の大王墓級の前方後円墳の埋葬施設は、日本列島の頂点にあったはずである。長持形石棺は、5世紀における王者の石棺とも称される。一方、九州では、同じころから横穴式石室があらわれる。しかし、仁徳陵古墳の後円部にある中心主体部は、前方部の状況や同時期の畿内における石室の様相から、竪穴式石室であったとみてさしつかえない。ただし前方部の石室のような川原石ではなく、安山岩の割石のほうがふさわしいように思えるという。
同書は、亀の甲のごとしとする石棺の蓋は高さのある家の形に近づき、表面の格子模様はあったとしても彩色で表現されていただろう。突起端部の稜線はもう少し丸みをもち、中央の円形のくぼみにも彩色があったかもしれない。
『全堺詳志』にある寸法から考えると、その石棺は津堂城山古墳と同じような大きさになるが、前方部のものや5世紀中ごろのほかの石棺を参考にすると、デザイン的には省略化がかなり進んでいたことになるという。

石室と長持形石棺 5世紀中葉-後葉 仁徳陵古墳前方部出土 大阪府堺市百舌鳥古墳群
『古墳時代のシンボル』は、1872年(明治5)に、堺県は仁徳陵古墳が鳥の巣窟となって汚れて不潔なので清掃がゆきとどくようにしたいと、教務省に伺いを出した。そして同年、前方部斜面で埋葬施設が露わになったことで、堺県令税所篤が調査することになるという。
同書は、絵図によれば、竪穴式石室は長さ3.6-3.9m、幅2.4m、四壁は川原石が積まれ、その上に3枚の天井石をかぶせている。なかには、長さ2.7m、幅1.45mの「亀ノ甲ノ如シ」と表現された蓋をもった長持形石棺が描かれる。石棺には繩掛突起がつき、突起先端に朱が塗られていることが注目されるという。
石棺は長持形から家形になる途上で、亀の甲形が現れるのかも。
同書は、長持形石棺の蓋表面にあった格子模様は無紋になり、突起も円柱状で端部稜線を面取りして中央には円形のくぼみがあったものが省かれるようになる。この流れからすれば、図にある仁徳陵古墳前方部の長持形石棺は、省略が進んだもっとも新しい部類に属することになるという。

桜井市兜塚古墳のように竪穴式石室に家形石棺という組み合わせから、横穴式石室に家形石棺が安置されるようになる。
橿原考古学研究所付属博物館の説明パネルは、朝鮮半島で横穴式石室を早くから採用していたのは高句麗であり、その影響で漢城(ソウル付近)を都にした百済に採用される。この石室構造に近いのが、北部九州の横穴式石室である。近畿の横穴式石室は、475年ころに熊津(公州)に都を移した後の百済地域(南部の全羅南道を含む)の石室に、その系譜がもとめられるという。
最大の横穴式石室となる見瀬丸山古墳(6世紀後半、奈良県橿原市)と小さな横穴式石室の藤ノ木古墳(6世紀第4四半期、奈良県斑鳩町)の比較図
石舞台古墳の石室とほぼ同じ大きさというこうもり塚古墳(6世紀後半、岡山県総社市)では家形石棺が縦方向に安置されていたし、各所で見てきた小さな横穴式石室でも縦置きだったように記憶しているが、横向きの場合もあるのだ。

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関連項目
兜塚古墳とメスリ山古墳
吉備路のこうもり塚古墳

参考サイト
山本ジェームズ氏の畿内家形石棺にみる棺蓋短側辺突起の変化

参考文献
「ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳」 千賀久 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」049
「古墳時代のシンボル 仁徳陵古墳」 一瀬和夫 2009年 新泉社 シリーズ「遺跡を学ぶ」055