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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/07/02

意外とある長持形石棺


長持形石棺を検索してみると、意外に各地の古墳にあることがわかった。
畿内の石棺の多くに使用された竜山石が産出された竜山石採石遺跡(兵庫県高砂市)から西方にある姫路市の壇場山古墳では長持形石棺が露出していることを知ったので出かけてきた。

この絵地図の壇場山古墳は前方後円の向きが反対ですがな👀
蛇足ですが、この地図で右下の「火山」に、こんなところに火山があるとはと、帰宅後調べてみると、「ひのやま」という名称でした😆
国道2号線からいきなり狭い道路に入り、住宅地をのろのろと進んでいくと、壇場山古墳の標識が。それを前方部の一角へ繋がる更に狭い道に入って行く(現地説明パネルより)。
駐車場はないが、車が数台置ける長さの通路に車は置ける。他に見学者が来ないことを期待して古墳の中へ。
壇場山古墳拡大図
説明パネルは、5世紀前半に築かれた前方後円墳である。墳丘の全長は約143mで、県下第2位西播磨では最大規模を誇る。
墳丘は三段築成で、周濠をめぐらし、部分的に周堤が残る。
壇場山古墳の墳形は、大阪府仲津山古墳の約2分の1の相似形となっており、畿内政権との密接なつながりをうかがわせる。
周囲にはかつて数基の陪塚があったとされるが、現在では櫛之堂古墳、林堂東塚古墳の2基が残るのみである。また、北西には一辺約60mの方墳、山ノ越古墳があるという。
カビだらけのパネル。

東側面は崩れて低く平らになっている。
一段目と二段目を繋ぐ石段の横に説明パネル。その左側から後円部に直接行けるみたい。
石段で二段目と三段目の段差がよく分かる。
二段目から一段目を見下ろす。
しかし、前方部二段目自体は斜面で通れない。
三段目には古墳とは思えない石垣は、後世に建てられた神社跡らしい。
その上に出ると、前方部は樹木で覆われ、開けた部分はアザミ他キク科のお花畑になっていた。
後円部へ。
墳丘には苔むした石棺の蓋が。
説明パネルは、後円部墳頂には繩掛け突起を有する竜山石製長持形石棺の蓋の一部が露出している。また、墳丘上では円筒埴輪をはじめ、家形・盾形・短甲形などの形象埴輪も採集されているという。
えらく細長い石棺である。
wikipediaは、埋葬施設は、組合せ式長持形石棺が後円部墳頂に露出することから、この石棺の直葬とされる。石棺の埋葬方向は主軸と直交するという。
ということは、この石棺の主は頭を北に向けていない。
墳頂に露出する蓋石は長さ2.7m幅1.2mを測り、縄掛突起が各辺2個ずつの計8個あるという。
繩掛突起は蓋石の東側に2つ、
埋まり方によって左右の形が違うように見えるが、
ちょっと枯れ葉を払ったくらいでは、下側まで見えない。
蓋石の西側に1つ・・・もう1つは土に埋まっているのかな。
そう言えば、西側の方が蓋石が細い感じ。でも掘り出す訳にもいかないし・・・
wikipediaは、現在ある石棺が後円部中央に位置していないこともあり、室宮山古墳(奈良県御所市)のように埋葬施設が複数ある(あった)可能性が指摘されている。
竜山石の長持形石棺は畿内の大王墓によく見られるものであるが、当地では壇場山古墳のほか櫛之堂古墳(陪塚)や山之越古墳でも認められており、陪塚にまで使用されるという特異な様相を示している。各地に長持形石棺を供給した竜山石の石切場は本古墳の南東約8㎞に位置するため、竜山石の産出が壇場山古墳の被葬者の支配下に置かれ、比較的容易に長持形石棺を採用できた可能性が指摘される
という。

確かに棺の中央から前方部を眺めると捻れた感じがした。
では壇場山古墳の本当の主はどこに?どの方向に?
後円部とのくびれ部分から道がついていて、辿っていくと周濠に出た。
周堤が残っているというのはこの辺りかな?

第2古墳(櫛之堂古墳)の残存部
上がってみると、長持形石棺の一部が残っていた。短いし、上辺が盛り上がっているので、長持形の蓋石が被さる短側辺だろう。

壇場山古墳の西側を通って行く。
西側面にはくびれ部に造出が残っていた。
扁平な造出。

この道を北に向かうと月極駐車場の向こうに山ノ越古墳(第3古墳)が現れる。頂部まで登山道が付いているように見えたが、それは刈った草で、その上を登っていくと滑って転げ落ちそうになるのだった。
説明パネルは、山ノ越古墳は、5世紀中頃の方墳で、壇場山古墳に次ぐ首長墓とされる。平成23年に姫路市が行った墳丘東部の発掘調査により、墳丘の1辺約60mで、周囲に幅15m程度の周濠が巡ることが確認された。墳丘は北側を中心に大きく削平されており、中央に竜山産の凝灰岩製長持形石棺が露出している。石棺は、明治30年に開棺調査され、獣帯鏡、鉄刀、鉄剣、玉類が出土したという。
現在の墳丘北端に石棺が露出していた。
山ノ越古墳も壇場山古墳と同じ直葬みたい。
壇場山古墳に露出する長持形石棺のような細長いタイプではなく、ずんぐりしている。太森の中の壇場山古墳の石棺は苔を考慮に入れても青白かったが、この石棺は陽に晒されているせいか赤茶けている。第2古墳(櫛之堂古墳)に残っていた石棺短側辺の石もこんな色目だった。
でも何のために板が置かれているのだろう。
板をはずしてみた。
繩掛突起は短め。
長側辺の繩掛突起も辛うじて見える。
いや長側辺の上部が見えていて、繩掛突起はその下方にある。
一応、板を元の位置に戻して、北側から下りていく。
左右の長側辺の繩掛突起が、雑草の間から見える。
北側は古墳の形が崩れているので、
斜面に凹凸があり、南面よりは安全に下りていける。
北西より眺めると石棺が少し見える。
西面より眺めると、石棺が墳丘中央に置かれていたのだとすると、墳丘はこの写真に収まりきらない大きさだったことになる。
道路に出て車の方へ向かっていると、空き地から山ノ越古墳と石碑が見えた。
ここから登るのが正解だったかも。

蛇足
鉄道で通る度に見えた採石場だが、宝殿駅が近くにあることもあって、これが「石の宝殿」だと子供の頃から思い込んでいた。石がたくさん採れる宝の山というのだろうくらいに。
ところが、いい年になって「少しくらい地元のことを知っておこう」と思って、『播磨国風土記を歩く』という本を開くと、なんと、これは古くからの採石場で、「石の宝殿」は別にあることがわかった。
もちろん出かけたが、写真はどこに行ったやら・・・。

竜山石採石遺跡
同書は、龍山の白っぽい採石跡は遠くから見ると崩落を続ける自然の異形みたいだが、近づくと巨大な木彫の場に立ち会った気になる。一つ一つの切り出し跡に作業と搬出法を考えつくした意志が千年分もこもっているので、一見して素材の木を削りながら造形していくのに似た印象があるという。

石の宝殿
同書は、 同じように石を削っても、なぜ何のためだったのか意図をはかりかねるのが石の宝殿である。
風土記ではそれを大石と呼び、新しく入ってきた仏教を排斥して名を上げた物部守屋がつくったものとして「その形、家屋の如く」と書いている。幅6.5m、高さ5.7m、奥行5.46mの巨大な石の造形物で生石神社のご神体である。
風土記のいうように棟を西に倒したような家形である。底はまだ岩床から切り離されていないから石が生きているということだろう、生石(おおしこ)と呼ばれる。
何を完成しようとしたのかが謎なら、なぜ中断されたのかも謎。社殿によると大国主命と少彦名神が石の神殿づくりにとりかかったが、途中でふもとの里で阿賀神が反乱を起こしたので急いで鎮圧に下山し、反乱が治まってもそのまま放置されてしまったという。
いくら説明を読んでもはてなマークがなかなか消えない。播磨の謎ナンバー1であるという。
新しい記事は石の宝殿
残念ながら同書には背面や側面からの写真がないので、国土交通省神戸運輸管理部の★地域の魅力紹介★石の宝殿を見ていると、そうそう背面が出っ張って屋根のようだったと、昔の記憶が蘇り、大変参考になりました。

長持形石棺から家形石棺へ

関連項目
古墳時代前期の大和古墳群は墓室が南北方向

参考サイト
wikipediaの壇場山古墳
国土交通省神戸運輸管理部の★地域の魅力紹介★石の宝殿

参考文献
「播磨国風土記を歩く」 文・寺林峻 写真・中村真一郎 1998年 神戸新聞総合出版センター