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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2019/07/05

一遍聖絵と時宗の名宝展 一遍聖絵巻1-4


一遍聖絵を見ようと京博へ。
バス乗り場から眺めた京都駅。昔は市電やバスの乗り場の向こうの駅舎は二階建ての建物だったのに、いつの間にかこれが見慣れた風景となってしまった。
七条大橋から上流。四条通りからやや西に流れを変えた鴨川は、この当りは幅が広い。その東を走っていた京阪電車もいつの間にか地下を通り、その上は広い川端通りとなっている。
バスのアナウンスでは七条を「ななじょう」と言うようになった。七条通りは「しちじょうとおり」と思っていたが、昔々ある人に、関西は「し」とちごうて「ひ」や。「ひっちょう」やと聞いたことがある。ある時七条通りが東に突き当たったところにある智積院の角辺りで、確かにかなで「ひがしやまひっちょう」と石柱に彫られていた。「ななじょう」は四条と聞き間違うことがないが、情緒がなくなってしまった。
さて、そろそろ左に京博が見えてきた。正面が智積院。

通りに面した巨大なポスターには一遍聖絵から取り出した人々。すべてを捨ててみな踊れ!と小田切里の武士の館で踊り念仏をする場面。しかしその人物は一遍聖ではない。
図録の表紙(下に添付)には一遍上人も登場している。
南門入口には富士山も。

そして、たぶん平成知新館が出来て以来、いつの間にか特別展の会場とされることもなく、閉まったままの本館。博物館のホームページでは明治古都館という名称になているが、もうこの中に入ることはできないのだろうか。
『京都洋館ウォッチング』は、左右対称の優美なバロック様式。旧帝国京都博物館の本館として1895(明治28)年に竣工し、その2年後に開館。宮内省内匠寮技師の片山東熊が、バロック様式を取り入れて設計したという。
ギリシア神殿の三角破風のようなものがお寺の三門の上にある。昔はそれぞれのアーチの下は吹きさらしだった。
破風の中はほぼ左右対称に女神と男神がくつろいでいる。国産み神話のイザナギとイザナミかな。
各所に細かな浮彫装飾があることにやっと気付いた。

谷口𠮷生氏設計の平成知新館へ。
遠くからは1枚のパネルに見えたが、
近付くにつれ、別々のパネルであることが分かってくる。
横から見ると😉
館内にも巨大パネル

『一遍聖絵展図録』は、一遍は、その生涯の大半を諸国の遊行に費やし、神社仏閣を参詣し、貴賎の間に念仏を勧進し、賦算を行い、道俗とともに踊り念仏をするなど布教に努めた。
『聖絵』12巻は、国宝清浄光寺本(歓喜光寺旧蔵、第7巻は東京国立博物館蔵)の第12巻末の奥書によって、正安元年(1299)一遍の十回忌に当り報恩謝徳のために制作されたもので、一遍の門弟で弟とされる歓喜光寺の開山となる聖戒(1261-1323)が詞書を編述起草し、法眼円伊が絵を描き、藤原経伊が外題を書いたことが知られる。
『聖絵』12巻は、阿弥陀如来の十二光四十八願にちなみ12巻48段にして詞書と絵とで描き表わした絹本著色の豪華な絵巻であるという。 

「一遍聖絵」は僧侶を描いた絵巻の中では絵が非常に美しいことは知っていたが、まず驚いたのは詞書の料紙にも色が付いている、しかも巻1の最初が赤とは👀
『国宝一遍聖絵と時宗の名宝展図録』(以下『一遍聖絵展図録』)は、絵巻を絹本著色で仕立てることは、わが国では希有なこと。また、『聖絵』が「一人のすすめで」(12-3)制作されたこと、詞書が五色の顔料で地塗り分けて色紙型に見立て、しかも同色で地文様を描き散らし、中国の蠟箋に倣うなど典雅にして王朝貴族的な趣向を窺わせる。この詞書の仕様は「目をよろこばしむる」(12-13)ように描写されたこととあわせ、『聖絵』の企画・制作には関白あるいは内大臣など貴顕の後援者がいたことは十分に想像されるという。
図録のあるページに五色の料紙が揃っていた。 

同展図録は、一遍は、その生涯の大半を諸国の遊行に費やし、神社仏閣を参詣し、貴賎の間に念仏を勧進し、賦算を行い、道俗ともに踊り念仏をするなど布教強化に努めたという。図録に載っている簡単な説明で『一遍聖絵』を辿ると、

巻1-1
善入とともに太宰府へと出立(伊予国)
紅梅の咲く頃に家を離れる。この絵巻は自然描写が素晴らしいことでも知られている。
「善入」と「十五歳(数え年で)」という文字が書き込まれている。大和絵風の土坡の裾に水墨画風の掠れた墨線が二重に描かれ、高さを感じさせる。


巻1-2 
肥前国で華台に師事、

巻1-3 
太宰府にて聖達に師事(筑紫国)、

詞書のみ
父の死にあたり帰郷。半僧半俗の生活を送るが、仏道への専念を志す(伊予国)

巻1-4
聖達に会うため太宰府に出立。聖戒が出家し同行(伊予国)
聖戒は一遍の門弟で弟とされている。
一遍は既に成人している。文字に記されていないが、一番前が一遍。
鳥が雁行して飛んでいく。背が茶色く腹が白っぽいカモ類、オナガかな?

巻1-5
善光寺に参詣。一光三尊の阿弥陀如来を礼拝し、二河白道図を描き写す(信濃国)
当時が現在の伽藍配置と同じとすると、門の左手に五重塔があるので、一遍たちは西門から入り、向拝の前にいる。
絵巻では本殿の屋根が十字形になっているが、現在の本堂(宝永4年、1707)はT字形。

巻1-6
窪寺で二河白道図を掛け念仏修行(伊予国)
二河白道図については後日
お寺の周囲は田んぼで、稲が実っている様子が表され、スズメの群は田んぼから飛び立っていく。

巻2-1
岩屋寺に参籠。遁世の決意(伊予国)
大和絵にはない山岳表現である。中国より伝来した水墨画も採り入れている。険しい岩山とは違う緩やかな斜面を表現しているのだろうか。
これについては後日・・・まとめられれば😉
岩に張り付いているのが仙人堂、手前の檜皮葺の建物が不動堂。不動堂では2人の僧が向かい合って話をしている。そこから長い梯子をつたっていく人物が2名。仙人堂にも僧がいる様子だが、よくはわからない。
wikipediaで画像を見ると、仙人堂は現在岩壁に凹みがあるだけで、垂直に近い梯子が付いている。
しかしながら、この岩屋寺から続く3つの峰の方がインパクトがある。
しかも、右の峰には梯子が取り付けられており、上のお堂へと登っていく2人。同展リーフレットは上の若い僧に注目しているが、
私は下の僧が一遍だと思っていた。
同展図録は、絵の筆者は法眼円伊とされているが描写筆致から4グループほどの分担執筆になり、あるいは存在したであろう工房の共同執筆になることが考えられるが、作風が12巻共通していて、法眼円伊はそのグループを統括する工房の主任格の絵師であったともみられる。
法眼円伊の画業など詳細は不明で、園城寺の僧正に当てる説もあるが、矢張り絵の描写、筆致から同時代の画法、作風の類似する絹本掛軸の縁起絵や垂迹画の宮曼荼羅などを善くした絵師を想定するのが妥当のように思われる。絵師は強いて言えば筆致、作風は異なるが『春日権現験記絵』を描いた当代絵所預として活躍した宮廷絵師の高階隆兼に比肩しうる絵師とみて言い過ぎではないように思われるという。
伝統的な大和絵の画法の上に、水墨画の山の表現を学べる立場にあった、絵師としてかなりの立場にあった人物だろう。

巻2-2
遊行に出立(伊予国)
サクラらしき花が咲いているので春だろう。先頭が一遍、後尾の編み笠を背負い、見送る人々の方を振り返っているのが聖戒。
シラサギが遠方から飛来し、一行の行く手へと飛び去っていく。

巻2-3
桜井にて聖戒との別れ(伊予国)
出立した場面続いていて、その先で聖戒とはすぐに別れてしまう。理由は詞書に記されているかも知れないが、読めないので😢
同展図録は、門弟で弟とされる歓喜光寺の開山となる聖戒(1261-1323)が詞書を編述起草したという。

巻2-4 
四天王寺に参籠。初めての賦算(摂津国)
賦算とは「南無阿弥陀仏・・」と書いた札を配ることらしい。

あべのハルカスから見下ろした現在の四天王寺と伽藍配置が同じ。

巻2-5
高野山に参籠(紀伊国)

巻3-1
熊野に参詣。僧に賦算するも信心が起きないことを理由に受取を拒まれる(紀伊国)
一遍は文永11年(1274)の夏、高野山を過ぎ、熊野へ参詣する。その途中、一僧(熊野権現の化身)に会い、問答が交わされる。すなわち、
一遍「一年の信をおこして南無阿弥陀仏ととなえて、このふだをうけ給べし」
僧「いま一念の信心をこり侍らず、うけば妄語なるべし」と言って受取らぬ
一遍「仏教を信ずる心おはしまさずや、などかうけ給はざるべき」
僧「経教うたがはずといえども信心のおこらざる事はちからおよばざる事なり」
二人が問答する間に、幾人かの道者が集まり、この僧がもし念仏札を受け取らなければ彼らも受け取らぬため、本意ではないが「信心のおこらずともうけ給へ」と言って僧に札を渡した。これを見て道者もみな札を受けた。僧は行方しれずとなったという。

巻3-2
本宮証誠殿で山伏姿の熊野権現より賦算を続けるよう託宣
一遍は「この事を思惟するに、故なきことでもない。勧進のをもむき冥慮をあふぐべし」と思い、本宮証誠殿の御前に願意を祈請する。目を閉じてうとうとしている所に御殿の御戸が押し開いて、白髪なる山臥の長頭巾をかけた権現が現れ、一遍の前に歩みよって言う。「融通念仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめられるぞ。  略  信不信をえらばず、浄不浄をきらはずその札をくばるべし」という。
後に目を開いて見ると、一二三ばかりなる童子100人ほどがやって来て、手をささげて「その念仏をうけむ」と言って札を受け取り南無阿弥陀仏と唱えていづ方ともなく去った。
この挿話は一遍が他力本願の深意を領解したことを示すもので、一遍51年の生涯のうち一転機をなす出来事であったという。
山伏姿の熊野権現から託宣を受ける一遍が右端に描かれるが、その右部分が上図。異時同図になっている。
興味深かったのは、社殿の廊下のあちこちに狛犬が置かれていること。

巻3-3・4
新宮・那智
同展図録は、一遍の熊野参詣は、内容もさることながら『聖絵』第3巻第1段(3-1)の山中一僧(熊野権現)への賦算、熊野本宮証誠殿前にて熊野権現からの神託、熊野新宮、那智大社参詣の場面が絵巻の特色を活かして連続して描かれ、壮大な風景描写あ圧巻である。この場面は修理で錯簡が訂正され、正しい巡礼順となったという。
絵巻としては那智滝図は他にも描かれているかも知れないが、私が見たことのある那智滝図は根津美術館本である。同館ホームページによると、弘安4年(1281)から間もない頃の制作ということで、一遍聖絵が先か、根津美術館本が先かというくらい同時代に制作されたもののよう。

巻3-5
京、西海道を経て帰郷。念仏道場で享楽を求める人々に勧進(伊予国)

巻3-6
太宰府で聖達と同じ風呂に入り語る(筑紫国)

巻4-1
武士の屋形 主人に念仏を授ける(筑紫国)

巻4-2
大隅正八幡宮に参詣(大隅国)

詞書のみ
ここから他阿真教が同行(豊後国)
九州から伊予国、安芸国へ

巻4-3
吉備津宮の神主の子息の妻、一遍に帰依し出家(備前国)

巻4-4
怒った夫は一遍を追い福岡の市で見つけるが、会うなり改心し出家する

巻4-5
因幡堂にて宿泊 執行覚順に本尊より夢告(山城国・京)

巻4-6右側
伴野の市庭の在家にて歳末別時念仏 紫雲がたつ(信濃国)

巻4-7左側
小田切里の武士の館にて踊り念仏
これまでは念仏札を渡す賦算や、念仏を授けるてきたが、小田切里で初めて踊り念仏を行った。



               →一遍聖絵と時宗の名宝展 一遍聖絵巻5-8
関連項目
一遍聖絵と時宗の名宝展 一遍聖絵巻9-12

参考サイト
根津美術館那智滝図

参考文献
「国宝一遍聖絵と時宗の名宝展図録」 2019年 京都国立博物館
「京都洋館ウォッチング」 井上章一 2011年 とんぼの本・新潮社