ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2010/02/19
古墳時代前期の大和古墳群は墓室が南北方向
桜井茶臼山古墳(3世紀後半-4世紀代)は南北方向の前方後円墳で中心軸上に墓室があった。ホケノ山古墳は北西-南東方向の纏向型前方後円墳(3世紀半ば)で墓室は中心軸に対して斜めになっていた。そして黒塚古墳は東西方向の前方後円墳で中心軸に直交して墓室があり、それぞれに古墳の向きも古墳に対する墓室の向きも異なっていた。
しかし、古墳の向きはさまざまでも、墓室は3つともほぼ南北であることにやっと気がついた。ひょっとして、古墳時代前期の墓室は総て南北方向に造られていたのかも。
天理市立黒塚古墳展示館には黒塚古墳周辺の古墳の発掘の様子もパネルで紹介されていた。
中山大塚古墳
説明パネルは、全長120mの前方後円墳である。南を前方部、北が後円部である。後円部中央には古墳主軸と方向を同じくする埋葬施設。
埋葬の施設として竪穴式石室が作られた。石材には大阪府羽曳野市と奈良県香芝市のあいだに位置する春日山で採取された板石が使用された。竪穴式石室の大きさは南北の長さが7.5m、幅は約1.4mもある長大な石室であるという。
箸墓古墳と同様に、後円部の大きな古墳で、前方部もバチ形に開いている。パネルには時代が明記されていないが、箸墓からあまり時代の下がらない頃に築造された古墳だろう。 竪穴式石室は墳丘主軸に平行して作られたという。
古墳の向きが南北方向で、主軸上に石室があるという見方もできるが、石室だけ見るとやっぱり南北方向だ。 下池山古墳
説明パネルは、南北方向に主軸をおく前方後方墳。墳丘の大きさは全長120m、後方部長一辺65X55m、高さ14mである。後方部の平坦面全体を使って掘られた大規模な墓壙である。南北18m、東西12mあり、深さは4mにもおよぶという。
前方後方墳は下池山古墳の周辺にいくつかある。こちらも時代が明記されていない。
発掘調査した橿原考古学研究所のホームページの下池山古墳の木棺は、下池山古墳は、天理市の東南部の成願寺町にあります。このあたりは約20基の古墳が集中しており、大和古墳群と呼ばれています。この古墳群は、西殿塚古墳や中山大塚古墳などの大型の前期古墳が主体で、しかもその群中に前方後方墳が数基みられることから注目されてきましたという。
大和古墳群の前方後方墳も古墳時代前期とみてよいのだろう。 竪穴式石室は南北6.8m、幅1.3-0.9mあり、高さは1.8mである。大阪府柏原市芝山付近から産出する安山岩の板石を用いて石室を構築して、壁面には赤色顔料が塗られているという。
こちらも南北方向の古墳で、主軸上に石室がある。石室が南北方向にあるともいえる。 メスリ山古墳
『シリーズ遺跡を学ぶ035最初の巨大古墳』は、独立丘陵を整形してつくられた前方後円墳という。やっぱり地形を利用していたのだ。当時の人々にとってはそれでも大工事だっただろう。
地形を利用して築くとなると、前方後円墳の方向はそれぞれの丘陵によって異なってくることになる。
メスリ山古墳は桜井茶臼山古墳の南西にあって、向きは箸墓古墳とほぼ同じで、東西軸から少し後円部が北に振っている。 箸墓古墳のものが円形壇であるならば、次に築造されたと見られる西殿塚古墳が方形壇となり、桜井茶臼山古墳が壺形土器を方形にめぐらし、桜井市阿部・高田のメスリ山古墳は方形に円筒埴輪を樹立する。墳頂はこのように変化していくものかという。
メスリ山古墳もまた、主軸とは関係なく、墓室はほぼ南北方向に造られている。
後円部では墓室の上で葬送の祭祀が行われていたのだ。 古墳時代前期は、地形を利用していたので、主軸の向きはそれぞれに異なっていたが、墓室は南北に造られたらしいことがわかってきた。
大和古墳群(下図)の中には未発掘のものもあるし、長い年月の間に削平され、墓室が失われたものもある。しかし、ひょっとするとこれらの古墳群はすべて、いろんな方向を向いていても、墓室は南北方向ではないだろうか。
ということは、箸墓古墳も主軸はほぼ東西だが、墓室の向きは南北方向で、北枕だったことが、墓質床のわずか高低差からわかるものもあるようだ。 茶臼山古墳は箸墓古墳の約2.5㎞南方向に、その南西にメスリ山古墳があります。
※参考ウェブサイト
橿原考古学研究所の下池山古墳の木棺
※参考文献
天理市立黒塚古墳展示館写真パネル
桜井市立埋蔵文化財センターの写真パネル
「シリーズ遺跡を学ぶ035 最初の巨大古墳・箸墓古墳」(清水眞一 2007年 新泉社)