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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/02/23

古墳時代前期の石室に天井石が被せられた 

 
黒塚古墳の石室天井は合掌型という不思議なものだったが、黒塚古墳展示館の展示パネルには、大和古墳群の石室の様子も紹介されていた。

中山大塚古墳
黒塚古墳展示館の展示パネルは、石室を覆う粘土は特別に赤色のものを用いたり、数種類の色に染め分けた布を粘土の間に敷き込んでいた。周囲には石室の安定と排水施設を兼ねた多量の河原石が敷かれているという。
板石と呼ぶには不成形な石を持ち送りにして、上へいくほど狭くなっている。天井は黒塚古墳よりもずっと高い。
石の大きさは全然違うが、石室内部空間としては、古墳時代後期の横穴式石室のに近い。
上には天井石のようなものが見える。かなり大きな石らしい。天井石があるので、黒塚古墳よりも後に築かれたのだろう。 下池山古墳
石室の中央にはコウヤマキ製の割竹形木棺が残存し(身部)、棺蓋も一部残っていた。古墳の石室内に木製の棺が残ること自体希なことである。全長は5.24mであるが、本来は6mほどの棺であろうという。
首長の棺には当時の人々が運べる最大最長の木が使われたのだろう。
板石は黒塚古墳に近いが、天井は黒塚古墳よりも高そうだ。
橿原考古学研究所の池山古墳の木棺は、石室を造るためには、まず長さ18m、幅12m、深さ3.5mあまりの大きな墓壙を掘り、その底に粘土を敷いて棺を据えます。そして棺の周囲に板状の石を積み上げて空間を作り、天井石をかぶせます。石室の規模は、長さ6.9m、最大幅1.3m、最大高さ1.8mで、四壁は内側に向かって傾斜をつけるために、天井の幅は狭くなっています。石室の幅は北側が広く、床面も北側が高くなっていることから、遺体は頭を北に向けていたと思われます。石材は、大阪府柏原市の芝山から産出されるカンラン石安山岩を使用しており、約18㎞の距離を運んだものですという。
黒塚古墳と同じく床面の北側が高くなっていて、北枕だったようだ。古墳時代前期の古墳は墓室を南北方向に造られたものが多いが、頭の向きは北側だったのかも。
墓室の築造の順序として、木棺を安置した後に石を積んでいったらしい。四壁を内側に傾けるというのは強度を増すためだろうか。
下池山古墳にも天井石が被せられていたらしい。どんな石だったのだろう。 メスリ山古墳
石室の上部は底部よりも心持ち狭くなっているが、持ち送りして狭くしていくというほどではなくなっている。天井石も平たく薄い(桜井市埋蔵文化財センターで展示)。一定の大きさの平たい石が確保できるようになると、石室も桜井茶臼山古墳と同様に傾斜がなくなり、直方体に近い形に造られるようになるのだろうか。
桜井茶臼山古墳では壺形土器の周囲に、直径約30㎝の柱が合い接するように立て並べていました。この「丸太垣」ともいうべき堅牢な塀が、石室とその上部の方形壇を外側から保護していました。四角く立ち並ぶ「丸太垣」の姿は、埴輪の方形配列と共通するものであり、古墳に埴輪を配置する起源を考える上で、重要な資料となるという(「桜井茶臼山古墳の調査」より)。
木の柱の替わりに円筒埴輪を並べるようになったのか。 3世紀半ばのホケノ山古墳は天井がどのように造られていたのか結論が出ていないようだが、天井石が出土していないので木製だと見られている。黒塚古墳は板石を合掌形に積み上げてあり、非常に狭い空間だった。
中山大塚古墳や下池山古墳では、天井が高くなり、天井石が被せられていたが、側壁は持ち送りで、上へいくほど狭くなっていた。
3世紀後半-4世紀の桜井茶臼山古墳や、その近くにあるメスリ山古墳では、板石をほぼ垂直に積み、その上に平たい天井石を被せていた。
古墳時代前期の石室と天井がこのように変化、あるいは進化していったようだ。

※参考サイト
橿原考古学研究所池山古墳の木棺

※参考文献
黒塚古墳展示館の展示パネル
「桜井茶臼山古墳の調査 現地見学会資料」(2009年10月29-30日 奈良県立橿原考古学研究所)